大学時代の4年間が、1番むちゃくちゃで、ほんとのやりたい放題で、
どんだけ泣いたか分からんし、何回も死にそうになったし

でも、私はこれがやりたかったんだと思える、命を燃やせた4年間だった。



プロフィール写真のようなパーマヘアに、人生で初めて美容院でしてもらって
(それまではずっと、母に切ってもらっていた。)、私は生まれ育った家から旅立っていった。

私はワクワクとドキドキで希望に満ちていて、前しか見ていなかったが、
母は、私を下宿に残して神戸に1人で帰る夜、
6時間近く松本駅の喫茶店で待つ間、涙が止まらなかったそうだ。

家から出してくれ、大学に通わせてくれた両親に
心から、ほんとうに感謝している。



みんなよりも一足遅れて大学生になったので、下宿先がもうあまり残っていなかったが、
自分にピッタリ!と思えるところが運よく見つかった。


そこは”蔵”だった。

大家さんが、敷地内の蔵を改造して、女子学生専用の下宿にしてあった。

1階に共同のトイレ、2階に共同の台所と部屋が4つあり、すでに3部屋がうまっていた。
3年生が2人と新1年生が1人。
残っていた1部屋を、私は借りることにした。
確か、月々11000円だったかな。


3年生2人とはあまり接点がなく、もう名前も覚えていないが、
私の向かいの部屋に住んでいた教育学部の1年生は
「しばたみゆき」という名前でビビッた。

私が小6のときに、グループでいじめ倒していた子と同姓同名だった。



同じ団地の、私が5階、彼女は3階に住んでいて、その子のお母さんが強烈だった。

今思えばその子はおまけでしかなく、私はその子のお母さんのことが嫌でたまらなかったのだ。
その矛先がこどもに向いただけだ。



そのおばさん(私の地元では、友達のお母さんのことを親しみをこめて”〇〇ちゃんのおばちゃん”
と言うが、その人のことを”おばちゃん”とは言えなかった。)は、私の母よりかなり年取って見え、
実際にそうだったらしい。
遅くにできたこどもらしい、と誰かが言っていた。



その子はひとりっこで、顔はアヒルみたいで可愛くなかった。

その子のことを必要以上に守っているふうなそのおばさんのことが気に入らなかったし、
何よりも、私たち(近所のこどもたち)のことを、敵かなにかと思っているような扱い、態度をとる
そのことに腹が立っていた。



私は小さい頃から、人に会ったら”笑顔であいさつ”
そう言われてその通りに実践し続け、
そのおかげでほとんどの人と良好なコミュニケーションを築くことができたし、
特に大人に可愛がられてきた。

なのにそのおばさんは、そんな私の世界を、価値観を握りつぶすかのごとく、
こちらが挨拶をしようとしても無視は当たり前、
見ていて不快な態度や、こちらの気持ちを逆なでするようなことをし続けた。



あるときは、「足音がうるさい」と家にまで言いに来た。

母は、すみませんとか言っていたような気がするが、私は影で聞いていて、
(は???うちは5階でお宅は3階で、間に4階があるんですけど?!
3階でうるさいなら4階の人はどうなってるわけ?4階の人にうるさいとか言われたこと
1回もないんですけど!)

・・・そんなこと、言えるはずなかったけど。



むっきーーーーーーー!!完全に向こうからしかけてきとる。イチャモンつけてきよる。
売ってきとんねん、買ったろやないの!と、血気盛んだった小6の私は、おばさんのこどものいじめに走った。と言っても、直接何かをしたというわけではない。しらんぷりとか、そういうのだ。

ま、そのおばさんが私たちにしてきたことを、その子に返したまでだ。



仲良し5人グループで強気になっていたから、戦いの最後の方ではおばさんにもやったった。

1階にある集合ポストの「しばたさん」のところにはっぱをぎゅうぎゅうに詰める、とか
エロいいたずら電話をかける(直接はとても無理だったから、いったんカセットテープに吹き込んだものを、電話をかけておばさんが出たら流す)とか、ピン逃げ(ピンポンダッシュのこと)とか・・・。



おばさんはついに学校に訴え、
私たちは先生に呼び出され、
私の母はおばさんに謝る羽目になった。



母には申し訳なかったが、もうその時点で私はスッキリしていたのだ。
次は何をしようか考えるのが物凄く楽しかったし、おばさんをなんとかしてとっちめてやりたかったから、ある意味、降参したんだなと思えたんだろう。
私の中では、その件はもう終わっていた。






そんないきさつのあった”しばたみゆき”。

忘れもしない名前と、ここでまた会うとは!!



複雑な心境だった。

彼女もまた、お世辞にも可愛いとは言えない独特の濃い顔立ちで、大きな眼鏡をかけていて
(おばさんもでかい眼鏡をかけていた!)、そしてびっくりするようなイントネーションでしゃべった。

彼女は静岡の人だった。
関西地方以外で生活したことのなかった私にとって、標準語のイントネーションはテレビの中だけのものだった。目の前で初めて聞くその話し方に私は圧倒されてしまい、彼女の前ではいつもの自分を出すことができなかった。
この人はきっと、関西で暮らしても、話し方はこのままだろうな・・・そう、ぼんやり思っていた。
そのイントネーションが嫌というより、それも含めて彼女自身のことが生理的に好きではなかったのだと思う。



台所もトイレも一緒だから(お風呂は、近くに銭湯があった。)どうしたって顔を合わせる。
それなりに話はしたけど、気持ちの良いかんじではなかった。



でも、好きではなくても、できれば仲良くしたいという(人に嫌われたくないともいう)、
争いを避けてきたそんな私だったから、ずいぶんがんばった。・・・





ところが私は、びっくりするような行動に出て
あっけなく私たちの関係は終わった。



冷蔵庫に入っていた彼女の牛乳を、何日にもわたり勝手に何度も飲み、
問い詰められて、「飲んでいない」と言い張ったのだ。



以後、彼女の信用を失い、2人の間にはきちんと境界線ができ、
結果つきあわなくてよくなったので
楽になったとも言える。



今思えば、すごい手段を使ったなと思うが、
なんなんでしょうね、ある意味”自分に嘘をつかない”ということをまっとうした
のでしょうね。。。




あと、思い出せる限りでは、その頃私はけっこう自炊をしていて、
母が私に作ってくれていたような料理を、自分でオリジナルを編み出しつつ作っていた。

近くに自然食品のお店があったので、調味料や食材も、そういうところで買っていた。



”そういう食事が良いのだ!”という思いが、自分の存在も半分被ってるくらいに大きかったから、
その反動もあったのだと思う。



牛乳は自分では買わない(買えないとも言う。当時の私のかんじからすると、”買えない”だな。牛乳は飲むと良くないもの、と思っていた。)から、
共同で使っていた冷蔵庫に牛乳を見つけたときに「魔がさした」っていうね。

”飲みたかった”のに、飲むことを自分に許さなかった。

結果、盗み飲みってね・・どうかと思うけどね。



私の中には依存と甘えがあり、罪悪感を感じながら、”盗み飲み”していたな。








小6のときの”しばたみゆき”(正確にはその母)と
大学1年生のときの”しばたみゆき”。



2人、それぞれとの関係が終わる前に私がしたことは、アホみたいな、あきれるほどのこと
だった。

”完全にバレバレなのに知らんふりしてやった”ってこと。
(小6のときのいたずらの数々も一応、「誰がやったか分からん」ってことな!
ってのが私たちの中にあったから。笑えるけど。)

相手の、戦う気持ちを、私と付き合う気持ちを、
完全に萎えさせる最高の・・・”攻撃”ではなく”パフォーマンス”
と敢えて言いたい。

・・・にしてもアホすぎるな。



今になってこんな昔のことを思い出して、でもけっこうちゃんと覚えているものだなと思った。
そのときの自分の細かい気持ちまでね。

そして、私と出会った2人の”しばたみゆき”のおかげで、
こんなにおもろいノンフィクションが書けてるし
今私の中では、2人は嫌な人じゃない。ネタを提供してくれた大切な人だ。













大学に、いよいよ通うようになった。

毎日が新しいことだらけで、自分のいる世界が色鮮やかなパラダイスのように見えた。
色であらわすと、サンシャインオレンジ、スカイブルー、美しい草原のグリーン・・・
そんな夢と希望に満ちた日々だった。



1年生は教養学部と呼ばれ、どんな講義でも選択することができた。

で私はまた、性懲りもなく”物理”を選んだ。

いいかげんにしたら・・・と言いたいところだが、
初めて受けた(やはりちんぷんかんぷんだった)物理の講義後に声をかけてきたのは、
後に結婚することになる”彼”だった。
前回(Part1とする)、自分の生い立ちを書いていこうとして大きく脱線したのだったが、
とりあえず高校に入るところまでは書けた気がするので、その後のことを追っていきたいと思う。



やはりと言うか・・・各中学校でトップ5くらいの生徒たちが入ってくるのだから、余裕で入ったわけではない私が普通に勉強していて中位以上になるわけがなかった。
成績はだいたい中~下あたりをさまよっていた。
これならやりたい!と思える科目もなかったし、入った部活(合唱部と茶華道部)がものすごく楽しかったというわけでもなかった。

それまでの自分の人生の中で初めて、目的とか目標なども特になく、流されているな~と感じていた時代だったと思う。
高校に入った当初からみんな、東大、京大、阪大、神大か関関同立、有名国公立もしくは有名私立を目指すという空気があったので、そうなんだな、と思っていた。私もそうなるんだなと。

そうなるんだな・・・というような曖昧な感覚しかなかったのは、自分の中に、「その目標に向けていくぞ!」という燃えるものがなかったためだろう。



我が家の教育方針は、”自分で決めて自分でやればいい、その結果も自分のものだ”というようなかんじだったので、いろいろやった。

”数学オリンピック”なるものを受けてみたり、文化祭の野外ステージで1人で、へたくそな歌を披露してみたり、海外からのホームステイの学生を家に泊めることを勝手に決めたり、”高校生だけで作る演劇”のオーディションを受けて舞台に立ったりした。
そのときは燃えてるかんじがした。


でも、振り返って高校3年間を色で表現すると、ぼんやりとグレイだ。

自分が熱くなれるものは今目の前にあるのに、自分が目標としようとしていることはなんて遠くにあるのか・・・まるで実感できなくて、だから高3の夏が終わるまで、自分の偏差値さえ把握していない状態だった。

偏差値どころか、自分がどの科目なら点が取れるのかということも、土壇場まで知らないふりをした。

通っていた高校は2年生から理系と文系に分かれ、理系はさらに、物理化学の理系と化学生物の理系に分かれるようになっていた。
テストの点数などで教師が振り分けるのではなく、生徒が自分で決めるのだ。
そういう意味ではその高校は自由な校風で、服装も、制服はあるけれど自由だった。
でも完全に私服、という人は少なかったな。
その制服を着ているだけでステータス、みたいなところがあったからな・・(苦笑)
今でもそういうの、あるのかな?と思う。


私は明らかに、国語や英語や社会などの方が点が取れるいわゆる文系だと分かってはいたけれど、”理系はかっこいい”と思っていたので、迷わず理系、しかも物理化学の理系を選んだ。

そのクラスは、40人あまりの生徒のうち女子は4人だけだった。
当たり前だけど他の3人は、数学も物理もよくできた。そのうち1人は、教師よりも分かりやすいと言われて、放課後クラスメイトにレクチャーするぐらいの人だった。
私もずいぶんお世話になったが、最後の最後まで、やっぱりわからないものはわからなかった。


1年がんばったけどもう無理だなと思い、3年生になって化学生物の理系のクラスに変えた。
女子の比率がクラスの半数近くで、毎日が一気に華やかになった。


そうして、志望校をそろそろ決める、という時期がやってきて・・・


改めて自分の偏差値を見てみたら、当時付き合っていた先輩が入った神戸大学には、どうしたって入れそうもなかった。
ま、すでに大嫌いになっていたので入る気はさらさらなかったが、それにしてもどうしようかな・・・というありさまだった。

中学生の頃には、医者に、しかも小児科医になってアトピーのこどもたちを助けたいと思っていたが、現状を見る限り医学部も到底無理だ。


1つだけ私の中で確かだったこと、それは「家を出る」ということだった。
それだけは、何が何でもやりたかった。


スキーが大好きな父の勧めもあって、希望校を信州大学にすることにした。
気合を入れて勉強すれば届くかもしれない。
学部は、当時たまたま家で見つけた梁瀬義亮さんというお医者さんの著書に影響を受け、
農学部に決めた。
学科はしかし、またもやかっこよさを優先し(白衣を着て、夜中まで研究するというイメージがあった)、生物資源科学科というところにした。懲りないな・・・。


高校受験のときと同様、私は、信州大学に行くと決めたのだからそこしか受けない
ということをまたやった。
前期、後期の2回、信州大学だけを受けたのだ。

前期で受からなくて後期で受かる確率ってどうなんだ?と思うから、後期は別の大学にしたりもするけど、私はやっぱりアホのように前期も後期も同じ大学にした。


















で、前期で落ちた。








後期で受かる確率は限りなくないに等しかったが、一発逆転とか、あり得ないことが起こるとか
あるかもしれないと思い、後期の小論文に懸けることにして、持てる力を出し切った。


































で、落ちた。





























さすがに2日間くらい自室にこもり、人生初めての挫折、社会からの否定(自分を否定されたわけではないけれど)を味わった。















なにかスッキリとした。




















否定はされても(されてないけどね。そのときの自分の気持ちは、どうしてもこれが妥当。)、
”今の自分を出し切った”という、やりきった感があったからかもしれない。











春から予備校通いかなぁ・・・と思っていたところに1本の電話があった。




















「補欠で合格です。」

「え?」




と言うわけで私は、信州大学の学生になった。
1973年10月11日、香川県木田郡三木町池戸で、本家の初孫として生まれる。

両親は結婚後6年間こどもに恵まれず、母は一か八かの手術をして奇跡的に成功、私を授かった。
大切に大切に育てられたが、1才になる頃アトピーを発症、毎朝布団が血だらけになるほどだった。掻き壊してはかさぶたができ、掻き壊しては・・・を繰り返していた。掻きすぎて色素沈着が進んだ箇所もあれば、日光の影響で・・・なのか、小2のときには背中を中心として体中に色素沈着があり、治すも治さないも、隠すも隠さないもない、当時の私にとってはもう絶望としかいいようのない状態になっていた。
私は何度も母の前で泣いたし、嫌で嫌で仕方がないと言った。
母も泣いていたし、できることなら変わってやりたいと言われた(今ならその母の気持ちが死ぬほど分かる)。そして母が最後に言ったことは、
「かみさまが、ゆかりのことを見つけやすくするためだよ。」
その言葉を聞いて私はようやく納得し、でもその納得とともに、特別意識(人と違うことが良い・人よりも優れている)も携えて、それからの人生を生きるようになった。
母と二人三脚で。

小3になって、神戸少年少女合唱団に入り、家ではラジオで流れるベストテンを聴いて耳コピで歌詞を書き取り、曲をかけては歌う・・・そんなことをずっとやっていた。歌が大好きだった。
歌手になるっていいな~と思ったが、テレビで肩も背中も出ているような綺麗なドレスを着て歌っている人たちを見ると、一瞬で目が覚めた。
小3の頃の私の”歌手”という定義の中で、”あの、綺麗なドレスが着られること”という条件をはずすことは不可能だったから、「大好きなもの」の代わりに、自分の存在意義を知らしめてくれるもの(人と違うとか、人よりも優れているとか・・)を追求するようになっていった。

小6の頃と高1の頃、アトピーの状態が酷く、激しくなったときには必ず母が全身全霊で助け、そばにいてくれた。
痒くなかったことがないというほどの、万年慢性アトピー。
普通の日常生活が送れるときと、激しい痒み、それを掻き壊して激しい痛み、少しよくなるとまた痒み・・・というエンドレスなスパイラルにはまるときと・・・つい最近まで、ほんとうにずっと、それを繰り返してきた。
小5の終わり頃から酷くなってきていた私のアトピーを、どうにかしたくて母はいろんなところに出かけたり情報を集めたりしていた。そしてあるとき、食事でアトピーは治るという話を聞き、大阪の正食協会に通い、我が家の食事は1年間、玄米菜食になった。母は、私が小6の1年間、給食の献立と全く同じメニューのマクロビ弁当を、毎日持たせてくれた。
そして里芋パスタ(マクロビの手当て法の1つ。すりおろした里芋と生姜、小麦粉を混ぜて、患部に湿布のように当てる。)を毎日毎日し続けてくれた。

高1の頃は・・・
今思い出しても、自分でもヤバかったと思う。
お岩さんどころではない、顔全体がやけどで焼けただれたような・・パンパンに腫れ上がり、赤く、炎症を起こし・・思わず顔を背けたくなるような有様だったのに、私は休まず学校に通った。
目は開けずらいし、ものも食べにくい。家にいてもよかっただろう。私が「学校に行かない」と言っても誰も非難などしない容姿だったが、私は「行く」ことを選んだ。
”何故”か、理由を聞かれてもいまだにうまく答えられない。
行かない理由ならいくらでも思いつくが、行く理由は当の本人でも分からない(笑)。
そのとき母は、「学校に行く」と言う私を止めなかったし、病院に行こうとも言わなかった。
結局、普通に学校に行き、普通に家でも生活しているうちに何ヶ月かして治っていった。




これを書いていて・・・
今気づいた。

長男を出産してひと月後くらいから、彼の顔が酷い状態になったんだった・・・当時の私と同じような。
そのときにとった私の行動は、あの頃と一緒だ。
まるで変わりなく、人前にも彼を連れ出し、普通に生活した。
周りの人たちに、かわいそうね~とか大変ね~とか言われたけれど、私はなんにも気にしていなかった。で、半年くらいして、綺麗に治ったのだ。

高1の頃の私はどうだったか思い出してみる・・・そんな顔を晒していても誰にもなにも言われなかった気がする。覚えていないだけかな・・でも、”傷ついた”という自覚が全くない。


考えてみたら、そうなる直前に、物凄いエネルギー量の大きい出来事がどちらにもある。

高1のときには・・・
その前にあったのは高校受験。
神戸市の第三学区ではトップと言われる高校(父や伯母の母校)を受験しようとしていた。
それも私立を併願することなく。
その高校にしか入る気がないのだからそこしか受けない
と当たり前のように担任に言い、「背水の陣だぞ。」と言われたことを覚えている。
そんなことを言われたのに、落ちたら行く高校がないなんてこれっぽっちも考えていなかった。
そして・・・当然のように受かった。

長男のときは・・・
自宅で、家族だけでの出産を敢行したのだ。
このときも、”万が一”がよぎらなかった。
そして・・・当たり前のように長男は生まれてきた。


この、あまりにも似通う2つのケースを見てみると、半端ないエネルギーの放出・吸収
のようなことなのでは?と思える。

だから私は酷い有様(この場合どちらも、1番人目につく顔。だから相当だね。)を、当たり前のように受け入れたのではないかと(スッキリと、理由なし!)・・・答えが出た(笑)。

これって量子力学ぢゃないのか?!
何の勉強もしていません、適当に言ってます・・・。