突然だが、社会の最小単位とはなんだろう。
近代以降の考え方としては、
「社会」という概念を分けて分けて分け続けた結果、
最終的にこれ以上分けきれない!となったのが「個人」という最小単位だとされている。
英単語で考えてみよう。
「個人」は英単語では「individual」
「in」は否定や打ち消しの意をもつ接頭語。
真ん中の「divid」は「divide」、つまり「分ける」ということを意味する。
だから「分ける」ことが「否定」されて、
「これ以上分けることが出来ない」ということを意味するのが「individual」=「個人」だったのだ。
このように言語の中にもその考え方を見出すことが出来る。
しかしここで少し考えてみたいのが、
「個人という細分化不可能な最小単位」とは、つまり、「個人は『一つの性格』を持ち、
多重人格者という例外を除いて、『一つのアイデンティティ、一つの個性』を持つ存在」なのか、ということだ。
そんなこと当たり前だ、と言われそうなのだけれども、果たしてそうか。
「個人」とはもうこれ以上「分ける」ことが「出来ない」ものなのだろうか...。
なぜこんなことを考えるようになったのかというと、
西きょうじ先生(代ゼミ)のお話とツイッターにおける複数アカウント所持者のことが気になったからなのだ。
西先生のお話はこの記事の序盤で書いた事とほぼ同じなので、ツイッターの複数アカウント所持者についての個人的な洞察をまとめたいと思う。
言わずもがな、ツイッターは1人の個人が複数のアカウントを持つ事が可能で、最近ではアプリに他のアカウントを登録しておけばワンタッチでアカウントを切り替えることができるほどである。
そう、ここでは「個人」とは「細分化不可能な最小単位ではない」のである。
一つのアカウントではおふざけやくだらないことを呟いていても、
また別のアカウントでは真面目に政治や社会について議論を交わすこともできる。
決して1人一つのアカウントに縛られることはないのだ。
つまり、誰かが「チャラチャラ」した「キャラ」だからといって、その人をチャラ男だと決めつけるのはナンセンスだといえる。
その人だって、時には真面目に議論したり、自分の考えを表現したりする。
一つのキャラによって自分を縛り付ける必要性などないし、他人がそれを押し付ける権利もない。
そしてツイッターとは個人の発言なのだから、その人の考え、性格が露呈してるといえる。
つまり、複数アカウントを持つ事は現実の個人も複数の性格がある、ということにはならないだろうか。
「個人という細分化不可能な最小単位」とは、つまり、「個人は『一つの性格』を持ち、
多重人格者という例外を除いて、『一つのアイデンティティ、一つの個性』を持つ存在」
、という考え方は否定されることになりはしないだろうか。
自分の意見では、
個人は複数の考え方や性格、アイデンティティを持ったって良いと思う。
むしろそれはとても自然なことなのではないだろうか。
めっちゃくちゃおふざけをしてバカしても、
時には真面目に語り合う、
これは全く恥ずかしいことではないと思う。