*多少「こころ」のネタバレあります。
最近久しぶりにふと夏目漱石の「こころ」を読んだ。
高2の時に夏休みの課題で買わされた小説。
言わずもがな、漱石の代表作の一つだ。
あの時は全く本を読まない人間だったので全く良さもわからず、結局最後まで読み終えずほったらかしにした。
『なんだこれ、夏目漱石って「ぼっちゃん」とか「我輩は猫である」の方がストーリーわかりやすいし面白いじゃん。』
高2の夏の自分はなんと愚かだったことか...
それからしばらくして高3になり、
とっても素敵な国語科の先生に出会った。
『みなさん!キツネって化けますかね!?』
その先生の第一声だった。
正直ラリってると思った。
でも、どこか親近感を感じた。なんというか、アウトサイダーというか...そんなところに。
その先生と色々あって親しくなった後、
「こころ」の話をしていただいたことを今でも覚えている。
その時に貸していただいた本が、
全くもって愚か極まりなかった自分が勉強しようと思うキッカケになった
柄谷行人の「言葉と悲劇」だった。
まあ一昔前の中身がかなり硬い哲学批評書なんだが、
この中にこころについての柄谷の批評がある。とても衝撃を受けた。
こころの大まかなストーリーは、
下宿先のお嬢さんのことが気になっていた私のもとに友人のKがやってきてともに下宿を始める。
その後Kは私にお嬢さんのことが好きだと言ってくる。
私は動揺して下宿先の奥さんにお嬢さんをくださいと言ってしまう。
その晩その事はKに伝わってしまい、Kは自殺してしまう。遺書が残されていたが、そこには私に対しての怨みの言葉はなかった...
だったかなあ?笑 多分あってる。
これに対しての柄谷の批評はとてもビックリする。
「Kは私よりも先にお嬢さんのことが好きだった。」
ビックリだ、Kは後からじゃないのか??
意味もわからずもう一度こころを読み直してみた。
そして深く考え直してみた。
ヘーゲルはかつて、人間の欲望とは他人の欲望だ、と言っている。
世界には色んな国があって、その国によって美人の基準は違う。
日本では一般的にすらっとしている女性が好まれる(そうじゃない人ももちろんいる。)。
だけど、南の方の国では、比較的ふっくらしていてお尻の大きな人が好まれる傾向にあるそうだ。
この違いはなにか。
ズバリ他者の欲望の対象が違うということだ。
周りがあの人がいい!と言うとその人の事がよく見えてきてしまう。
大衆においてはよく起こりうることだと思う。
あるアイドルが多くの人の人気を集めている時、
自分も良いなあと思ってしまうことはないだろうか。
つまり、他者の欲する物を欲してしまう。
他者の欲望を欲望してしまうのだ。
話をこころに戻すと、
Kが私にお嬢さんへの気持ちを伝えた後に、
私はすぐにお嬢さんを自分のものにしてしまおうと行動する。
ここに他者の欲望への欲望がみてとれる。
私はKの告白の後にお嬢さんへの恋心を固めたのだ。
つまり、Kの方が先にお嬢さんの事が好きだった。
私はKの欲望を欲望してしまったにすぎない。
そう、子どもが他の子のおもちゃを欲しがるように。
僕たちの生活する社会においてもこの欲望の形式は当たり前に存在している。
あれが欲しい。
あの人のようになりたい。
あの地位につきたい。
全部根本まで遡れば、
他人の欲望なのかもしれない。
他人に認められたい。
他人に羨ましがられたい。
そんな承認欲求こそがそれである。
みんな誰もが、意識せずに他人の欲望を欲望して、踊らされているのかもしれない。
漱石はそんな人間の常を、Kと私とお嬢さんの関係性に
息を潜めるように描写していたのかもしれない。
こんなことを考えているうちに
先生と柄谷をキッカケに、
「こころ」は自分の中でとっても大きな存在になった。
そして、まあ色々あり勉強しなきゃなあと思い、今こんな結果になっているわけです笑
とにかく、「こころ」という作品は本当に奥が深い。
とてもシンプルなストーリーだけどたくさんの批評家が真剣になって文芸批評をするだけのことはある。
漱石は100年たっても全く古ぼけてはいない。
みなさんもこんな視点からまた読んでみてはいかがでしょうか。
あなたの欲望も、もうすでに誰かに欲望されているかもしれません。