8月 10日





海軍で鍛えられた一年、技術習得の遅れを取り返すため、

多田時計店へ再び住み込み、時計の修理をしていた。


日支事変は拡大の一途を辿り、応召兵は続々と戦地へ送られ、

兵器増産のため勤労動員が始まって来た。


私にも日本航空、川西航空、日産、三菱など航空機関係の会社

から入社を促す書面が来ていた。


10月02日、召集令状が来たと義父から連絡が来た・・・。

ご主人にお礼を申し上げ、我が家へと急いだ。


除隊の時、分隊長から1年以内に日米戦争が始まると聞いていた。

生還はきし難い ! 若い未亡人を残すのは可哀想と思い、

床屋で丸坊主に刈ってもらった。


幸栄は泣くし、皆唖然・・・生きて帰れないことを縷々話した。

然し世間体もあり、残る家族は大変な思いだったと推測する。




昭和16年10月4日、召集令状 懐に 急遽結婚の式が挙行された。


日米開戦二ヶ月前、10月8日、霞ケ浦海軍航空隊へ入隊、

兵学校出身飛行学生の、操縦訓練飛行分隊に所属した。


ぴりぴりしていた霞空時代・・・。





台湾に転勤、予科練の教員時代、練習生を引率台南へ外出した時。





昭和20年2月、岡空の先任教員時代・・・。




本土決戦に備え、軍刀を依頼した。


昭和20年2月初旬、米軍の空爆下、難行苦行して届けてくれた。


「軍刀を 持して訪ねし 一時ぞ


再会あるや 神のみぞ知る }



3月 高知航空隊へ先任下士官として転勤。


昭和20年8月15日、四国 四万十川上流の秘密飛行場で、

特攻機の整備中 終戦を知る、特攻隊に解散命令が出た。


数々の幸運に恵まれ、8月23日、我が家へ帰郷した。