今年はお出かけの頻度が減り、暇な時間が増え、何かと振り返ってしまう癖がついている。
たまにはこんな時期があって良い。後ろ向きもイイものだ。

 

先月和歌山市の県立博物館に「濱口梧陵展」を観に行った帰り

ふと思い付いてそこから東に数百メートルの「七曲市場」に寄ってみた。

https://goo.gl/maps/cnWV9cCc4L8CkVTq7
住宅街にいきなり現れる、超レトロな商店街。



アーケードは低く暗い。しかも、訪ねたのが営業時間外(月~土 8:00~17:00営業)
で人の気配すらない。
発祥は大正8年だから100年以上も昔。今の「七曲市場」という名前になったのが昭和32年らしいから60年くらいか。
まるで昭和30年代の映画の中に迷い込んだような場所。
暗いせいなのか、足元のコンクリートもどす黒く感じる。
お肉屋さん、お魚屋さん、お惣菜屋さん、衣料品店・・・。 シャッターが閉まっていて
お店の様子が分からない。




何故、ここに来たのかというと、33年前、確実にここの市場の洋品店で働いていた自分を確かめたかったから。
高卒して病院で働きながら大阪の看護学校に入学したが、元々やりたくなかった進路だったのと身体を壊してその夏に挫折。
実家に帰って近所の工場で働いたけれども、夏の冷房にまた身体を壊して挫折。
次に面接を受けたのが、実家から通勤で1時間かかるこの七曲市場の洋品店だった。
高校時代に夏休みのバイトで、近くの大型店のテナントの大手メーカー品を扱う婦人服店で働いていたので、
「洋品店」楽しそうだな、と「七曲市場」ってどんな所なのか調べもせずに行き、すんなり決まった。
仕事は、まず、昭和なブルーの事務服を着させられ、商品に値札をつけたり、数百円の肌着を売る仕事。
また店の奥さんの私用を言付かったり
(何故かサンケイ新聞のカラーの料理ページを切り抜かされた)、
お昼ご飯は、市場内の当時の自分でも尻込みするようなカウンターしかない食堂で脂っこい天丼をマッハのスピードで食べた。
トイレは思い出したくない(笑)。
私の他にもう一人先輩の女の子がいたが、彼女には良くしてもらった。

自分としてはいつまで続くか分からないけれども、毎日電車で和歌山市内に通うのは新鮮であった。
次に何をやりたいとか、本来の自分は何をやりたかったのか、とか見つめる時間も無く
体調も悪く(肝臓を傷めていた)鎮痛剤ばかり飲んでいた。
もし今の自分が当時の自分に声を掛けるなら


「ゆっくりしなさいよ。進路は逃げない。」


なのだが、無知な両親との折り合いも悪い、当時妹も体調不良で両親は妹ばかり気にしていて、出戻りの私は放置されていた。
恥ずかしい話だが、父親は、私がナースへの道を挫折するに至って、就職した病院が立て替えてくれていた看護学校の入学金を支払う羽目になって随分私を恨んでいたように思う。

 

そして就職して2週間目の朝、私は目を覚ますと救急車に乗っていた。
その朝、起きて来ないので母が私を起こしに行くと、私は白目をむいて気を失っていたという。
一週間入院して、退院して、店に電話を掛けると一言

「取り消しやな」と切られた。
(だから当時の1週間分のバイト代も未だに貰ってません。)

当時(昭和60年代)の七曲市場は盛況だった。
通路がこんな黒いコンクリートだったなんで全然気づかなかったくらい、人、人、人だった。
私が勤めていた洋品店がどの店だったのか思い出せない。
でも通りの真ん中に掛けられた大きな丸時計は覚えている。
丸時計も、33年前の私を覚えてくれているだろうか。