これは問題を解決する方法ではない。どんなに誰に無理と言われようが、自分にとって必要なものを浮き彫りにする方法になるかもしれないというだけものである。

 

1.自分を取り巻くあらゆる制約を無視して、自分にとって本当に必要なものは何かを考える。

それは、本当に必要なものか?≒甘えてるだけじゃないのか?≒別の人が持っているから欲しいという類の底の無い欲望から来るものではないだろうか?あらゆる制約を無視したうえで自分に厳しく考える。しかしビジュアルとか、年齢とか、その時点での収入、家庭環境などの制約は頭の中で無理して取っ払う。制約を無視して考えるという事が奇麗事だというなら、それはどうにもならない。自分自身の死活問題について考えているのだから、せめて心の中では奇麗ごと言っていてはダメな筈だ。

 

2.それが本当に自分にとって必要なのかどうかを、あらゆる状況で再確認する。

必要があれば修正する。もし、満たされるような出来事があったなら、再確認をやめるのではなく、何故その時それが起きたのかを考える事は重要。その事を疑うにしても、感謝するにしても、どうしてそれが起こったのかは重要。それは失われる可能性もある。でも、心から感謝できる状況がそれ以上になく続くなら、それ以上の事は無い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

抱えている全ての問題を解消する方法

俺はそんな方法を考えてきたつもりだった。こういう方法というイメージはある。しかし逆のバイアスがかかっていて、具体的なステップに落とし込み辛いように思える。むしろ誰よりも、そんなものから遠い場所にいると思える時もある。見つかっていないのだから、これは現時点では、ポエムのようなものである。そして、抱えている全ての問題を解決する方法、そんなものがあれば苦労はしない。そんなものがあれば、皆幸せなはずだ。でも、そうは見えない。それどころか、とても簡単な問題をなくす為に、一生無意味な行為と無意味な行為の間を彷徨わなければならない状況に陥らされる事もおそらくある。見過ごせないのは、自分が知らないうちに、自分が自分の守るべき平和を守っていると勘違いしているうちに、そのような状況に陥らされている事もあり得るという事だ。いつものように朝起きて、家族に挨拶をして、朝食を食べて、たまたま出会った、困っているから助けてほしいという人のために、自分の時間をその人の為に使う。家に帰って家族と夕食をとり、その日は良いことをした気になって眠る。その間に、自分にとって、本当に大切なものを知らないところで失っているとしたら、本当に正気の沙汰ではない。現にここで、こうしている事そのものも正にそれかもしれない。幸せだと勘違いしている事が幸せだとは思えない。直接的であろうが、間接的であろうが、苛められて、苛められて、これで良いです。幸せです、と言葉にする事が幸せという事だろうか?本当はそうじゃないはずだ。抱えている全ての問題を解消する方法など無い。しかし、それに近い方法とは一体何だろうか?それは、幸せと只言えるようになる事ではないし、幸せであると勘違いしている状況であるとも思いたくはない。幸せについて考えるときに、宗教に入信するしか無いとか、強いものに媚びへつらうしか無いとか、そんなの間違ってると誰もが思えても、そういった状況も上述の通り、あるのかもしれない。でも、ただそうした状況だけが、世界に蔓延しているかもしれないという絶望が確信に変化したとき、その世界で、自分達にとって必要な益を得ている人達は良いとしても、そうでない人達は、どうなってしまうだろうか?

 

まず、自分にとって最低限必要な状況を具体的に把握しないといけない。自分がそうだったように、把握できていない人はいると思う。以下に記すように、自分にとって必要な筈なのに、その事を口にする事に抵抗を感じてしまう事も。しかし、必要が別の場所にある場合は、当然口を閉ざすことで満たされる事もない。

 

とても、重要に思える事として、しかし、言葉にする事に非常に抵抗を感じる事でもあるので、あえて直接的に言うが、俺の心理における非常に強い不安状況は、俺が将来愛する人たちと俺自身の子供を作り(俺にとって必要な人たちも同じ場所で同じようにすることができ)、その人たちと世界を作っているという実感を得る、ようなイメージをすることで和らぐ。逆に言えば、それを取り去って誤魔化すことは意味がない程に、本質的なもののようである。でもその方法が本当に分からない。恰好つけるなと言われれば、モテたいけどモテないだけでしょ、と批判する事は出来るかもしれないが(否定はしないが)、この一言では決定的な誤解を与えてしまう。そして、逆風がある。おそらく、とても自然なこうした欲求について、恐ろしく強い逆風がある。こんな本質的な事に、気づくことが難しい。そして気づいた所で、やはり自分の必要を満たすことは難しい。

 

次のような場所を俺は現時点では知らない。その世界にいる人たちの必要が満たされるような世界で、俺と未来における俺にとって必要な人たちの子供たちがいつも幸せに住んでいる。こんな場所を俺は知らない。しかし、この状況のイメージしか、自分を満たしてくれるものはない。そこで別に自分は笑顔ではないかもしれない。むしろ不機嫌そうな顔をしているかも。もしくはへんな場面で笑うかも。歩き方は格好悪く、時間や日付を間違える事ばかりかもしれない。知り合いと間違えて声をかけたり、知り合いなのに気づかずに素通りしてしまったりするかもしれない。ハキハキとした態度を取っているかどうかも疑問である。いざ言葉にしようと思うと出てこない。現在と同じで、何も知らないかもしれない。技術も、経済も、政治も。しかし、全て本来些末な問題をどうにかしようと思えばすぐに出来るだけの訓練のための環境がある。そして、自分と同じものを必要としている人達と確かに幸せにそこにいる。そこにすべての人が満たされるためのものがある。しかし、それが、すくなくとも、その場所においては、例に漏れず誰もが享受できる幸せなのである。誰か一人でも、そんな最低限の幸せを享受できていないという下らない状況が、誰にとっても下らな過ぎると考えられるレベルの人達の集まりだからである。どんな事によって自分達を支える事が出来るかを知っていて、新しく面白い事があれば、共有する事へのデメリットが無い。そんな満たされ方をしている。

 

そんなコストもかからないはずの当たり前な欲求が満たされない、満たす方法を教えられていない、知らないから、ここにこんな事を書いているのだ。それが不幸中の幸いか分からない。あるいはその逆である場合もあるだろうけども、状況によっては言葉が出てこず、考えてしまうので、俺にとっては、文章にする事が一番都合が良い。しかも、そうするしかない。