わたものストーリー。
なんかスパンが長過ぎてダメですね。
もっとサクサク書きたいのですが~~~
よーっし、明日から早起きや~~( ̄□ ̄;)!!
わたしの物語パート1幼少編
わたしの物語パート2中学編
わたしの物語パート3中学飛び込みおまけ編
わたしの物語パート4大学時代編
わたしの物語パート5よしもとさんの秘書編
って感じで進んで来たんですけどね、
ある意味ここまでがジェットコースター級の生活してました。
日々刺激が一杯で、自宅からちょっと動けば学生時代テレビで見ていた
原宿や渋谷、新宿・・・、文化文化が盛りだくさんで全てが輝いていました。
で・・・関西に戻って来てしばらくは・・・
気が抜けてしまって廃人化していました・・・ε=(。・д・。)
その頃、父がメインで住んでいた兵庫の山奥の家で
父と並んで流星群を見たり・・・
肺気腫を患っていた父はすでに引退していて、
その気楽そうな生活ぶりをうらやましがると、
「お前はこれからやないか。
まだまだ働いて何かを築いてからやぞ。
言うてみれば用無しになるまでは働かんとな!
こういう生活は色々やり抜いてからや」
と、胸にずぶずぶ突き刺さる言葉を投げかけられました。
今思えば全く彼の言う通りで、長い時代クヨクヨしていたなぁと
当時の自分を一喝しに行きたい程(笑)
でも、いっぱいいっぱいだったのも覚えてるので
急に自分の顔と同じ顔のおばちゃんに一喝されたら
どうなってたことやら~。
そんな感じだったものの、それまでやりくりしてためた貯金で
学生の時に出来なかったヨーロッパ長期旅行に出かけました。
私には5歳年上の姉がいるのですが、
その姉がフランスはパリで結婚生活をしているので
まずは姉夫婦に会いに行きました。
うだうだしている私を見て姉も
「人生は短い!さっさと自分の行きたい所へ行かんかい!!!」
と、イタリアに住みたがっていたのを知っていたので
ほり出されました(苦笑)
ありとあらゆる方々の協力があって・・・
御陰さまで、長年行きたかったイタリアのローマで
色んな方々の助けを借りて、
短期語学留学をここでしました。
情けない事に1ヶ月だったのか、
2ヶ月だったのか・・・定かじゃないわ~~
ともかくその時にお世話になった兄的存在
日本で上演されるオペラの字幕担当や、
その反対のイタリアで上演される日本の演劇のイタリア語への翻訳などをしているT兄が・・・
「ぼくはイタリア語を習得したくて、解らないとくやしくて眠れなかったから語学学校に通ってた時期は大抵6時間は勉強してたなぁー・・・」
なんて水割りの氷をクルクルさせながら呟いていたのを今でも覚えていて、
それは無理!!!と∑(゚Д゚)
心身共にブロックしているのを未だに体感しております(苦笑)
ローマを中心に南イタリアを電車で放浪し・・・
また戻って来て体調が整った頃に北へと出発。
大概のイタリア主要都市はその時に訪れました。
どの町も特徴があって素晴らしく、
地方それぞれに溢れた魅力があって、
益々イタリアが好きになりました。
その間、友達に会いに、イギリスへも。
一人旅でスペイン、ポルトガル、ドイツ、ベルギー、スイスと回りました。
色々な国を回りました。
そして、身も心も大きくなった私は
「日本で地に足を着けて働こう!」
と決めて帰国したのが6ヶ月後でした。
ありがたいことです。
その後ようやく、近所の親友のお母さんが勤務していた
奈良市役所にアルバイトを募集しているとの事で
ほぼ抵抗なく、アルバイトをしに通ったんですよ~~
それがなんと1年以上!
単調な仕事と、やってて意味があるのか未だに良くわからなかった
作業を担当したんですけど色んな人に出会って勉強になった時期でもありました。
旅行中に思っていた
「地に足を着けた人々」が教えてくれたもの。
それも今、体験としてすご~く肥やしになっています。
それから・・・契約が切れる時期が来て、
失業保険をもらいながら飲食の訓練コースに通わせてもらう事に!!
お金をもらいながら訓練学校に行けるなんて!!
これまたすごかったなぁ。
しかも、そういう立場の訓練生を雇うとその業界でありさえすれば、
礼金としてお金が支払われるというシステムがあったので
常に「何か良い就職先はないかな・・・」と探していました。
そこで朝日新聞に大きく求人広告が出ていたのを見つけたのが我らが
スターバックスコーヒージャパン♡
まさに飲食業!
その当時まだ大阪では数えるほどで、
どこに行っても大行列覚悟で行かなくては
カフェラテにありつけぬ人気でした。
2000年になる前の私にとっては記念すべき時期でした。
わたしの物語その7に続く~~♪