相変わらず不定期すぎる更新です。
今年はもっと更新したいなんて言いながら、以前の記事から5カ月も間があいてしまいました!

もし更新を気にかけてくれた方がいたらすみません…( p_q)


さて私ですが、今の職場に就職して無事一年を迎えました。
そうこうしているうちに7月も終わりそうで…(*_*)
時の経つ早さに泣かされます。

で、周囲の人に助けられなんとか今までやってこれている感じの私ですが、
醜形恐怖症に関していえば、
この一年、醜形の症状が出て業務に支障を出したり、そのせいで早退したりはしなかったです。

大学時代は、症状のせいで講義に出られなかったり、大学自体に行けなかったりしたものですが、

社会人になってからはそのようなことは一回もないまま仕事出来ています。

まあ、やっぱり労働と引き換えにお金が発生しているのは大きいということですかね(笑)

まあそれは置いといて……




私が自分の顔について嫌悪を通り越した恐怖を感じる時、『ふつうではない』と強く感じています。

何と比べてふつうではないのかというと、
それはもちろん周りの女の子達です。(この比べる対象も、具体的に相手が居るのではなく、かなり漠然と『自分以外の普通の女の子』としか表現出来ない)

このふつうではないという感覚は、私の場合はかなり漠然としていて、
顔全体の印象もそうですが自分の顔のパーツの一つにしても『規格外に醜い』と強く感じるのです。


そうして、その異常さゆえに普通の集団から浮き出るのではないか、こんな顔は蔑まれて当然だという感情に責められるのです。


美しくなりたいというのももちろんありますが、それ以上に自分の顔を『規格内』
にしたいという思いが強い。

これは、醜形恐怖症になった当初から今まで私がずっと抱いている感情です。

とにかくマトモになりたいという想いは、醜形恐怖の思考にはありがちなものだと思いますが、

そもそもこのマトモというものがいったいなんなのか曖昧なんですよね。


とまあこんな風に延々と考えていても埒があかないので、

私が最近実践している方法はといえば、
ずばり他人の顔をじっくり見ることです。

それも綺麗に補正された雑誌のモデルの顔ではなく、身近な人の顔です。

よくよく見てみると、みな大なり小なりアラがあるものです。意外と。

他者の顔をよく見ると、人間ですから毛穴もあるし吹き出物もあります。
行き過ぎるとあまり良くないかも知れませんが、なーんだ、みんな結構不完全なんじゃないか…という体験を繰り返すことで、自分の顔の許せない部分も許せるようになるのではないかと思います。

たとえば、吹き出物や肌荒れが一切ない顔が「普通」の顔だと思っていた場合に、
他者の顔をよくよくみれば女優のように美しい肌の人はそういないのがわかるだけでも、私の顔は普通じゃないという気持ちは多少なりとも揺るがせられると思うんですね。

あまりジロジロ見るのは失礼ですが(笑)

まあ、そもそも醜形恐怖のような病の場合、顔を見られたくない(自分の顔を見ている人の顔を見たくない)あまり、
相手の顔が見れないというのもあると思います。これも仕方ないです。

それでも、逃げないで直視した時には、
自分が抱いていた顔への恐怖心がほぐれるかもしれないのです。


こう考えてみると、醜形恐怖は自分以外の他者と向き合うことが一番の薬なのかもしれないなと思えてきますね…。


無茶苦茶不定期更新ですが、それでも読んでくださっている方がいたら本当に感謝しかないです。


長くなりますが、最近家族が難しい病気にかかりまして、

今も入院しています。
一生付き合っていかなくてはならない病気です。

それでも、命まで奪われるような病気ではなかったことが嬉しくて、
でも悲しくて、美醜なんかにこだわって家族を困らせてきた自分を心底恥じました。

ですから、なおさら、健康な身体があるのに見た目にとらわれて前に進めない事態はもったいない。
本当にそう感じました。

自分がくだらないことでグダグダしてきたせいで罰があたったのかもと本気で悩みました。

今、幸いにして家族の病気の経過は良いです。顔うんぬんではなく、純粋に、大切な人の命がある喜びというものを強く実感しました…...。皮肉なものですが。

あえて美醜なんかと書きましたが、それだからと言って簡単に捨ててしまえるものだとは私は思いません。

ただ、実際大切な人が生きるか死ぬかを目の前にすると、そういう自意識が余剰なものに感じられるのです。

こんなものにとらわれていたのかーという感覚が強烈なのですよ。


まだうまく言えないですが、
これからも少しずつ、そして拙いですが、醜形恐怖に一生とらわれることはないんだと伝えていけたらと思いました…。