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平成最後の夏・・・まさかこんなにどえらい夏になろうとは想像しなかったわ( 一一)
  それでも、私はしぶとく生きています(笑)
      皆様、如何お過ごしでしょうか?

さて、終戦の日の記事として今回書かねばならないと思った題材・・・それは高砂義勇軍。(高砂族というのは台湾に於いて漢化されなかった高地に住む台湾先住民の総称。”生蕃”とか”高山”とか称されていたが秩父宮がその呼称は差別的であると意見され、高砂という縁起のいい名前にかえた経緯がある)
少しでも先の大戦に興味をお持ちの方ならこの名前はご存知だと思いますが、念のため↓を。


台湾の高砂族志願兵からなる部隊である。7度にわたって編成され、合計1,800-4,000名の原住民が参加したと考えられている。当初1,000人の募集に対して40万以上の志願があり、倍率は400倍以上となった。自らの血で志願のための嘆願書を書いたものも多く、落選した者は悔しさのあまりその場で泣き崩れたりしたという。
伝統的な生活を営む高砂族の勇敢で純朴な性質や、耳が良く、夜目が効き、素足で音も無く夜の密林を駆け巡ると言われる程の身体能力の高さが、東南アジアの密林地帯において有用な戦力になると期待された。


実際、彼らは戦地(主にニューギニア、フィリピン等のジャングル戦)に於いて無類の強さを発揮したらしい。豪州兵などは高砂の名を聞くと即座に撤退準備を始めたとか(まぁ誇大表現だろうけど)。ここでは「軍」という名称を使っているけど実は身分は「軍属」だったらしい。なんか旧日本軍のいやらしい部分(皇軍であるから「土人」を兵として使うわけにはいかないなんていうヘ理屈)が見えてくるなぁ。ここらへんが先の敗戦の理由の一つかもしれないなぁ( 一一)



 彼らと共に戦ったある旧日本人兵士の方が戦後、台湾の高砂義勇軍慰霊碑に参った際、ボロボロと涙を流しながらこう言われた。     「私はこの慰霊碑の前では一粒の米も食うことはできない」    その理由は・・・或る時ジャングル戦に於いて食料が欠乏して部隊が困窮を極めた。全員が餓死寸前。その時、ある高砂兵が後方の補給部隊までジャングルを突破して行き食料を調達して戻ってくることを志願した。ジャングルでの活動が得意な高砂人なら可能な行動だろうと思われ、部隊は彼に望みを託した。しかし、数日たっても帰ってこない。幾人かが彼を捜索したところ・・・。部隊から少し離れた地点で彼は両手いっぱいの食料を腹に抱えたまま「餓死」していた。部隊まであと少しのところまでその高砂兵は自分は食わずに戦友たちに持っていく食料を大事に抱え、必死に戻ろうとしていたのだ。    「それを思うと、どうしてこの慰霊碑の前でモノが食えますか?彼らは本当に戦士でした。私は彼等と共に戦ったことを誇りに思います。」この逸話を聞いて涙せぬ男はいるまい。



さて、大戦が終わり台湾は「日本」ではなくなった。ここで取り上げた高砂族の「日本兵」の方々には戦後の日本政府から長い間何の補償(遺族年金や恩給、弔慰金、障害者年金等々)もされなかった。「日本人」でなくなったという理由で。
  はぁ~~~?"(-""-)"
おかしな理屈じゃないか!この方々は日本人として志願して立派な皇軍兵士として戦われてた。その武勇は敵である英米豪にも広く知られている。勿論、戦病死された人は靖国神社にも祀られている。国の為に戦われ、名誉の負傷をされた、命を落とされた人に対して「後付け」の理由で何もしないというのは国としてどうなの?それでも文明国といえるの?先進国として偉そうなこと言えるの?オリンピックで莫大な予算を組むより、まずやらなければならないのはちゃんとした戦後の後始末じゃないのか?平成も終わろうとしているのにこれじゃぁあんまりじゃないか!?(._.)
自衛隊明記を安倍ちゃんはなんとか実現させようと頑張っているけど(日陰者であった自衛隊をちゃんとした形にすることは大変けっこうなことですけどね。勿論、このことに私は文句ありません)この高砂の「旧日本兵士」の方たちの立場もちゃんとしてあげてよ<m(__)m>ようやく支払われた弔慰金が200万だなんて普通の日本人兵士の場合と比べて全然金額が少なすぎる。
高齢となられたこの方たちは正当な日本軍兵士としての待遇を今も求めておられる。それって至極まっとうな要求じゃないか?
東北の震災で台湾の方々が示してくれた熱い情に我々は深い恩義を感じています。「謝謝 台湾」がいまだにあちらこちらで聞かれます。それなのに、高砂義勇軍に関するこの政府の態度は一人の日本人として恥ずかしい限り。「謝謝」なんてとても言えない(/_;)




8月15日の「終戦の日」を感慨深く迎える人は日本人だけじゃないんだよ( 一一)