生きていることについて、
今一度考える機会がやってきた。
最近になって、
身近な人の死に触れてきたからである。
確かに体調のことは聞かされていたところもあり、
もう少しとは感じていたのだけれど、
いざその瞬間を、
体感することとなって、
実際に現実を目の当たりにして、
ぽっかりと今でも、
心のうちに、
穴が開いてしまったような、
そんな感じになった。
身近な存在であったこともあり、
それでも、
まだ離れて過ごしていたため、
もっと近しくて、
近い状態で、
年月もたくさん一緒に過ごした方と比べてしまうと、
実感の重さが、
全然違うように感じる中、
それでも、
もう、
これから会えることが無いと分かった時、
一緒にいた時を考えると、
もとには戻らないし、
戻れないんだなと思った。
心の悲しみは、
少し深くも感じるが、
思いのほかしっかりはしているし、
今も仕事が始まっているので、
そこに、
充足的に、
思いを浸ることもなく。
ただ生きることと、
実際に死につながることを、
改めて考えて、
見つめなおすことになった。
生きているということは、
本当に自然なことであるし、
当たり前になっているが、
何かのバランスが、
崩れた時に、
その生きることが、
止まってしまう瞬間が、
来ることを理解した。
当たり前に食べている食事。
当たり前に飲んでいる飲み物。
当たり前に仕事をして、
当たり前に家族と一緒に会話をしながら、
当たり前に一日を過ごして、
当たり前に寝ていたりする。
この当たり前が、
本当は当たり前ではなくて、
人それぞれ、
やりたいことや、
守るもののために、
バランスをとっていると思うと、
毎日が、
平和に過ごせて、
生きていられて、
周りの、
身近な人と、
一緒に楽しんで、
過ごしているこの瞬間や、
生活は、
本当に、
他の人の支えのおかげや、
信じていてくれる人がいてくれているから、
成り立っていたのだと思った。
人もいつかは動かなくなる。
誰でも等しく、
そのことは起こるし、
それを身近で体感する。
人も、
どんな生き物も、
鉱物でさえも、
年数などは違うが、
等しく、
存在が無に還る瞬間が存在するとなると、
今この生きていることで、
大切なことは、
どう生きて、
どう生を全うするかになっていくと、
凄く思うことができた。
その生きる中で、
誰といて、
どんな道を進みたくて、
そして歩んでいきたいのか。
何をやりたいのか。
何を護っていきたくて、
何を大切にしていきたいのか。
お金も必要なものであり、
ただ、
そのお金も、
他のものを体験するためや、
経験するため、
実際にみたことがまだない世界や視野を、
体感するために、
使えることが、
本来は大切であり、
人生をより濃く、
過ごすことができるような、
そんな気もしたりする。
人はなぜ、
死を恐怖して、
恐れたりもして、
生きようとするのだろう。
やはり、
体感したら、
繰り返すことが、
より現実的に考えると、
できないからだろうか。
人が生きたいと思う気持ちは、
年齢と、
今を納得して、
やれることを通して、
こうなりたいと思えるところがあって、
過ごしているかの違いで、
強さも大きさも、
変わっていくようにも感じる。
あとは、
家族に育てられて、
たくさんのことを学び、
成人して、
大人になってから、
たくさんのことをここでも学び、
そして、
素敵な人と出逢い、
一緒になって、
結婚して、
新しい生命を授かり、
子供ができて、
大きくなって、
子供が大人になっていく姿をみて、
そして、
子供が結婚して、
子供が孫を産んで、
自身もおじいちゃんおばあちゃんになった時、
きっと、
その時に、
また感じる喜びと、
ここまで生きて過ごしてきた実感と、
これからのことも含めて、
生への気持ちも軽くなって、
ゆっくり目を閉じていくのだろうと、
思ったりする。
産まれてから、
生を全うし終えるまで、
あなたは、
どの様な色で、
キャンパスに、
絵を描いていくのだろう。
人の分だけ、
無数にある人生。
万物も含めると、
もっと無限に近いほど存在する、
それぞれのストーリーを思い浮かべていくと、
一人が生きていることは、
たくさんのつながりの、
ドラマの一部なのだなとも、
思ったりする。
感じるままに書いているけど、
今こうして、
生かされて、
護られて生きていることは、
本当に素晴らしいことだと思う。
ありがとう。
生を喜びとして感じた時の綴り書き