世の中のひとりひとり、役割が存在する。

と考えてみる。

 

皆やりたいこと、なりたいこと、将来のことなど、考えて、夢見て、未来に希望を持ちながら生活している。。。

はずなのであるが、実際自分で求めていた現実を生きている人は限られているようにも感じている。

 

なぜそうなってしまっているのか。

やはり資本主義社会であって、特に日本だとその特色が強いからなのか。

それとも、この考え方は思い違いなのか。

 

ただ、そんな中人は死を全うするまで、生活し生きていく。

 

産まれは選べず、死ぬ時期なども、天寿を全うするためとして考えたら、指定して死ぬことは出来ない。

 

となると、全て選んできているが、強制でもある。

 

人生は強制から始まり、そこから抜け出す目的で、自由を幸せを求めて、人生を今よりもより良くしようと考え、模索して、行動して、、、今の結果があったりもする。逆にそこまで考えている人は世の中に何人いるかもあるので、考えずに、人生の生を終える人もたくさん存在したりする。

 

仮に抜け出せたとして、お金も時間も自由になって、手に入れられるものもすべて手に入れられた人でも、、、、

果たして最終的に皆平等に死が訪れるのに、それが大切なことでもあるのだろうか。

叶えたいことは現在が、影響力とお金と時間があれば、ある程度、世の中で出来ることは解決できるので必要ではあるから、

否定するつもりは全くない。むしろお金と時間は必要で、そのための影響力も必要である。

 

人生の目的の中でお金の安定と生活のために生きている人も多いと思うが、やりたいこと、できるようにしたいこと、そして願望が今現在の近代の発展やITの成長にも反映されている。

 

この自分の思考で思い付き、考え、創り上げ、今の現状を生きているこの考え方は、実はすべて必然のある一部のピースを埋めるためのそれぞれ皆に当てはめられていた役割だとしたら、どう考えるだろう。

 

必死で生きている人もいるし、必死でない人もいるし、生活のため、家族のため、幸せのため、未来将来のためや、逆に国のため、世界のため、人間が生きていくためなど、色々な目的をもって現実を死ぬまで生きて、次の世代につなげたりする。

 

けど、このすべてが世の中で一つのものを満たすために一分一秒、何をするかも、全て細かく計算されているような、そんな動きをさせられていたとしたらと考えた場合、どう思うだろうか。

 

矛盾と秩序が共存しているのが世界であり、宇宙であり、人生であり、この世のすべてである。

 

そして役割と考えたとしても、たぶんそこまで達成させないといけない大きい役割を持っているわけではないようにも思う。

勿論、方向としては、ブラックホール、ホワイトホールと言われるぐらい対極として、二通り存在するとすると、どちらにいっても、それに間違えはなく、結果一つの究極にたどり着くと考えたりすると、色々面白かったりもする。

 

後はサイクル的に輪を作り循環で生ができるのか、はたまた破壊であったり、奪い合いや憎しみあい、殺し合いなど死の部分の壊に成り果てるか。

陰と陽にも近いが、どちらもあるし必要であるから、今現在がより原動力として大きなエネルギーを発していくことにもなり、比べるもの、求めるものも、その陽と陰いろいろな意味で循環をさせるために、事象として起きたりもする。。。と考えてしまうと、世の中は面白いなと思ってしまう。この循環させるエネルギーが最終的に必要で、この思考の回路に近い、人たちの動きが人間の脳と似ていると考えるとまた面白い。

何を言って文章にならない文章をつらつら書いているんだと言われる内容であるが、世の中宇宙も含めて、人間の体内の細胞が拡大して一つの個体?を動かしているようなことにいきついてしまったり、、それぞれ一人一人が自由意思で選択していることが、実は自由意志と思っているだけであって、全然そんなことはなく、本能的にDNA的に選ばされて行動して、やり取りをして動いているとしたら、どうだろうか。

 

陰謀論っぽくも、何かスピリチャルっぽくも聞こえる人には聞こえるかもしれないが、別に陰謀論者でもスピリチャルでも自分はないので、ただただ人生生きてきて、色々な人のお話を聞いて、最終的に到達した結果で思考の吐き出し口として、考えたことを記録しているにすぎない。

 

でもそう考えると色々と繋がってくるのかなとも思ったりしている。

その考えに至った要因もあり、事実現実では説明のつかないことが結果、その流れでも情報としてとらえられている節もあるので、まだ研究ではないがずっと確認して傍観していかないとだとも思うが、そんなに間違ってもいないのかなと個人的には思ったりする。未来を当てるとかでもないので、ただの一つの考え方である。

 

あとは色々考察したところで、役割が存在するのではあるが、だれがどんな役割なのかは、その人の人生を全うしていかないと、結局最後か大事な時になって当人でしかわからないので、これは人生の面白いところでもあり、醍醐味なのかなと思う。

 

皆必要な存在ではあって、けど、必要の大小は人それぞれ違ってくる。選べる方向性も大きく二択で、そのどちらを選ぶかで、人生の死ぬ瞬間が決まり、そこに人生の途中で分岐点を何度か選ばされて、死ぬまでで行く方向を変えることが出来る中での結果の決まっている世界。そこは現実的には対称的ではない二つの選択次第での結果。

 

矛盾の中にある秩序。

 

その選択をする場が人生であって、そして知らず知らず本心に対して選択していて、死ぬ瞬間にわかったりする、場合がある。(自殺以外)

 

その天秤が地球での生活で、人間の将来に結果として繋がっていく。

宇宙の、地球の寿命までにどんな状態まで変わっていけるのだろうか。

 

ただできることは、ふつうに生きる前提での内容で考えたら、選択はおのずと環境と自分のおかれた、できる内容のことで生きていきながら、人の繁栄、子供子孫のバランスと受け継がせていくことが本能として刻まれていると考えたら、そのためできることでの配役は決まってくるかなと、、思う。