すべての問題は、
ここから始まっている
自信がない。自分が嫌い。傷つきたくない。
そう思うことが誰しもあると思います。
そして、そういう気持ちを長い間抱えてきた方に、
少し違う角度からお伝えしたいことがあります。
それはその苦しみの根っこには、
ある共通した構造があるということ。
それが何かというと「自分」という意識、
つまり「私とあなたは別々の存在だ」という分離の感覚です。
「自分という意識?それ当たり前じゃない?」と思うかもしれませんが、
もう一度、最初のフレーズを見てみましょう。
(自分に)自信がない、自分が(自分を)嫌い、(自分が)傷つきたくない。
自分、自分、自分・・・。
意識のベクトルが全て「自分」に向いているのですよね。
問題の根源は、この「自分」という幻想にあると、私は考えています。
「自分が嫌い」な人ほど、
自分にこだわっている
少し逆説的な話をします。
自分が嫌い、自信がない、自分を責めてしまう——
そういう方ほど、先程もお伝えしたように
実は「自分」という存在に強く意識が向いています。
別の言い方をすれば意識がとても狭くなっているとも
言えるかもしれません。
嫌いな自分を何とかしたい。もっといい自分になりたい。
この自分のままでいたくない。傷つくのが怖い。
そのすべての思いの中心に、「自分」がいます。
自分を嫌えば嫌うほど、
「嫌いな自分」というイメージが強化されていく。
自分を変えようとすればするほど、
「変わらなければならない自分」という前提が強化されていく。
自分を変えようと努力してうまくいかず、
その都度「変わりたいのに変われないダメな自分」
と自分を否定し、さらに自分のことが嫌いになっていく。
そうやって、自分が嫌いなはずなのに、
その「嫌いな自分」を手放せずに、
むしろその嫌いな自分にしがみついている。
これは、ある意味で「自分」という概念への深い執着です。
手放したいのに、手放せない。
それはある意味、当然のことかもしれません。
「手放す自分」もまた、自分だからです。
「自分」はそもそも存在するのか
スピリチュアルの世界では、
「ノンデュアリティ(非二元)」という考え方があります。
日本語にすると「分離は幻想であり、すべては一つ」という意味です。
でも私たちは普段「すべてはひとつ」ではなく、
「自分」と「他者」、「良い」と「悪い」、「得」と「損」のように、
世界を二つに分けて認識しています。
でも、その分離の感覚自体が、幻想だとしたら。
「自分はいない」と言うと、怖く聞こえるかもしれません。
でも、これは「あなたが存在しない」という意味ではありません。
少なくてもこの三次元の世界では、
この体があり、この感情があり、この思考がある。それは確かです。
ただ、「自分」という固定した実体、
他と切り離された、変わらない「私」は本質的には存在しない。
それは意識が作り出した概念、言わば幻想だということです。
私たちは「自分」を経験しに来ている
ではなぜ、存在しない「自分」を私たちは感じているのか。
一つの見方として、私たちはこの「自分」という体験をするために、
ここに来ているというものがあります。
魂の視点から見れば、「自分がいる感覚」も「自分が嫌いという感覚」も、
すべてが意図された経験です。
何かを学び、何かに気づき、そして成長するための。
自信のなさも、傷つく痛みも、誰かと比べてしまう苦しさも、
それは「自分」という幻想の中でしか味わえない、固有の体験です。
幻想だとわかっても、その体験の価値は消えません。
むしろ、幻想と知りながら体験することで、
苦しみから少し自由になれる。
「自分」というゲームのルールを知った上で、
そのゲームを楽しむような感覚です。

分離の意識が生む苦しみ
「自分」と「他者」が分離しているという前提があると、
どんなことが起きるでしょうか。
比較が生まれます。
あの人と自分を比べて、足りないと感じる。
傷つくことへの恐れが生まれます。
自分を守らなければという緊張が生まれる。
人体をイメージしてみましょう。
人体の中であなたが「手」だとして、
あなたは「足」から「手」である自分が嫌われたり、
攻撃されたりすることを想定して、
「足から自分を守らなきゃ!」と思いますか?
・・・たぶん思いませんよね。
ノンデュアリティ(非二元・分離していない)を分かりやすく言うと、
宇宙や世界という人体の一部としての自分がいるという考え方で、
そうなるとあなたも含めて全ての人は人体の細胞の一部で、
協力して人体という大きな全体を構成し、
それぞれがその大きな全体(人体)を生かすために、
それぞれの機能を発揮しながら、生きている。
手と足のように、形としては別々に見えるかもしれないけど、
同じ「人体」を構成する一部であり、仲間である。
だから仲間同士で攻撃しあったりすることは基本的にはない。
だからそれを怖れる必要もなければ、
他の細胞から自分を守る必要もない、という考え方になります。
でも分離の意識はそれとは違って、自分が全体の一部、
つまり手や足であるという認識がなく、
手と足はまるで別物で、手と足がそれぞれの主張をしあったりして、
お互いに攻撃しあったりする。
だからお互いに相手から自分を守らなくてはいけない。
ちなみに人体の中で、細胞が自分を攻撃していくこと
を自己免疫疾患といったり、癌といったりします。
自己嫌悪も、その延長線上にあります。
「こうあるべき自分」と「現実の自分」を切り離して比べるから、
ギャップが生まれて苦しみになる。分離の意識が、苦しみを生産し続けます。
逆に言えば、分離の感覚が薄れるとき、比べる相手がいなくなる。
守るべき「自分」が薄れると、
傷つくことへの恐れも小さくなっていきます。
例えば、誰かが成功した時のことを考えてみましょう。
分離の意識では「羨ましい」とか
「あの人は成功したのに、なぜ私はそうではないんだろう」とか
「あの人と比べて自分がダメだ」と思うてモヤモヤして、
自分で自分を傷つけていくことが多いのですが、
ノンデュアリティ(非二元)の意識でみたら、
「おめでとう!」「良かったね!」
「あなたが成功して、私も嬉しい!」となります。
ただ、いい人ぶっているのではないですよ。
成功したあの人も自分(自分の一部)だと知っているからです。
手を怪我したら、体全体で手をかばうように、
手に良いことがあったら、体全体が嬉しいのと一緒です。
羨ましいとか、あの人ばっかりずるいとか、どうせ私なんて・・・
と言っているより、「おめでとう」「良かったね!」「素敵!」
と心から言える方が、楽に生きられると思いませんか?
幻想に気づくと、何が変わるか
「自分は幻想だ」と知ることで、自分が消えるわけではありません。
変わるのは、「自分」との関係性です。
これまでは「自分」が全てだった。自分しか見ていなかった。
自分を守り、自分を変え、自分を評価すること、認めてもらうこと、
自分の安全を守ることに膨大なエネルギーを使ってきた。
でも、「自分は幻想かもしれない」と思えた瞬間、少し力が抜けます。
嫌いな自分を、必死に変えなくていいかもしれない。
傷つく自分を、必死に守らなくていいかもしれない。
足りない自分を、必死に補わなくていいかもしれない。
それは諦めではなく、「自分」というゲームを
少し俯瞰できるようになること。
ゲームの中に没入しながらも、「これはゲームだ」と知っている賢さです。
自分という体験を、もっと自由に
自信がない。自分が嫌い。
そう感じてきた時間の長さは、
それだけ「自分」という体験を深く生きてきた証でもあります。
その苦しみを否定しなくていい。
ただ、少しだけ視点を変えてみてほしいのです。
「自分」は幻想かもしれない。
でも、その幻想の中の体験は、本物です。
幻想と知りながら、それでも豊かに生きること。
自分という物語を、もう少し軽やかに紡いでいくこと。
そのための第一歩は、「自分」というものを
必死に守ったり変えたりするのをやめて、
ただ「そうか、これが今の私の体験か」と
眺めてみることかもしれません。
分離という幻想の中で、私たちはみんな、同じように迷いながら生きています。
あなたが嫌いな「自分」も、そのすべてが、ただの体験です。
ここ数年、自分軸という概念が流行っていますね。
これも「自分」にベクトルを向けることでそれは大切なことですが、
そうやって自分を一度しっかり握って放す(握らないと放す経験ができない)。
そうすると「悟り」がやってきます。
大げさだと感じるかもしれませんが、
結局人はみな、この「悟り」に向かっているのだと思います。
「悟り」=「差をとること」、
つまり「自分」と「他人」、「自分」と「世界」等
という差から解放されることですから。
自分をしっかり握って経験して、自分を手放すと、
その先にもっと豊かで軽やかな世界がやってきますよ。
★スピリチュアルマガジンanemone2024年5月号で
富士山とレムリアと縄文についてお話させて頂きました。

★ゆほびか様に「頼れるヒーリングサロン」として掲載頂きました。
(2022年1月号)
