本当に全てを救いたい
苦しみを取り去ってやりたい

という慈悲の心を
それは紛れもなく真のことなのだと

本当に自分に向けられているものなのだと
理解して受け取ることを信心というそうです。


自分の心から
自然と湧き出てきた何か

ではなくて

仏が真の慈悲や愛をもって
私を本気で救おうとしている
という事実を受け取ること

なのだそうです。


なんだかこれは深い❗️

そしてなんだか見覚えのある・・・⁉️






そうなのですよ。

日向さんがみんなに対して
平等であるといっていること。

みんなにやってくれていること。

つまりはこういうことであり
それをそれぞれが
自分に向けられていると知り
しっかりと受け取るだけでよかった。


そこに○○ちゃんはズルいとか
贔屓されてるとか
私は他の人よりも愛されてないとか

色々過去の体験をくっつける。


なぜなら、知らないから。

そういう平等の深い愛であり、かつ
個々人に向けて一つ一つにだけ
向けられているもの

という愛の形を知らなかったのですね。


世界には愛はある。
親には子どもに対する愛はあった。


でも、愛をくれた両親そのものは
我々と同じ人間だから
色々なカルマや思い込みや
過去の経験があるから

子どもに対しても
なんらかの関係性の傷が
どうしても発動してしまう。


だから、子どもはどうしても
傷になってしまうという側面はある。

ここはこの三次元世界の限界なのだろう。


でも、そういう次元を超えたもの
というのは本当にあるんだなぁと
この話をきいて思いました。


自分に向けられていた愛を
しっかりと受け取る事。


そこに多いも少ないもなかったし
愛されるということに
順番があり、序列があると
勝手に定義づけたのは自分だった。


それが自分の課題だったのだね。


だから、日向さんからの受け取りが大事で
数値にして出したりしているのだね
と改めて思った次第です。


受け取りが大事

には色々な側面があると思うけど
これもまた大事な受け取りなのですね。


あれこれ言い訳をしてるのは
本当にもったいない‼️
のですねぇ😆