誰にだって辛い事も

悲しい事も

嫌なこともある。


人生って選択なんだから

自分の見方や捉え方を変えれば

また違うものになる。



と話したら

みんな同じように苦しいんだから

なんて言われても

私とあなたのくるしみは違うし

それぞれみんな事情が違うし


という趣旨の意見がありました。


これに対する批判ではなくて

この件に関して

自分は昔どう考えていただろうか

と考えてみました。



確かに昔

そんな事言われても

私の苦しみは誰にも分からないとか

私の苦しみが他の人にはわからない


みたいな感想を持っていた事が

自分もあったなと思いました。


これはどういう状況なのか。


一言で言えば

自己中心性の中にしかいない

ということです。


自分から見た世界しかないということ。


みんななんかと同じ括りに

入れられてたまるものか。


私はちゃんとした事情がある。


私の苦しみは本物。

私は本当に深く悩んでる。

誰もわかってくれない。



ぐらいの感じだったかも。



どこまで行っても

私が

私が

という感覚だったのかな。




その範疇で生きることを選ぶなら

そうなるでしょう。


そうではなくて

みんな我慢してるから

我慢しなさいと言われてると

捉えるのではなく


誰しも苦しみはある。

どんな人生でも。

いつの時代に生まれても。


ただ、生きるに際しての

普遍的な法則はいつでも変わらない

という理解は必要。


宇宙の法則自体は平等なのです。




選択は変えられる。

自分の行動は変えられる。


というか自分が変えられるのなんて

自分の考え方と行動ぐらい

なのかもしれない。


だけど他人の行動は変えられない。


だから自分が変わるしかない。


だから、自分の運命を

変えていくことを選ぶのなら

その法則は認めないと進まない。



みんな平等に気づくチャンスがあり

癒されるチャンスがある。


って事だと捉えた方が

楽に生きられますよね。






そう思ったら柔軟に

視点を変えることを試してみよう

と思いました。


試すのに失敗も間違いもないのだから。


ただやってみる。

嫌だな、は感じても良い。

ただそれ以上でもそれ以下でもない。

ただそれだけなんだから。


そこに見解をくっつけるから

おかしな事になるだけなのだ。



見方を変える努力をしたら

苦しみばかりだったのが

自己を知るキッカケという

宝ばかりになった

という事もあり得るよね。