今日は「恐怖が行動の原動力である」

ということについて思ったことを書いてみます。

 

 
例えば鬼滅の刃では
鬼たちは恐怖から逃れるために
圧倒的な力を手にすることを望みました。
 
その力を以て
死の恐怖からも
老いることからも
病気への不安からも
逃れようとします。
 
鬼たちの生きる原動力は
恐怖なんですね
 
苦しみとか恐怖とか
ネガティブな思い出とかが
原動力で生きているので
 
結局は苦しみと恐怖の結果しか生まれない。
 
因果っていう言葉がありますから
因の部分が恐怖だったら
果の部分は恐怖にしかならない。
 
 
 
どれだけ強くなったとしても
人としての成長を捨てて
生老病死がもたらす課題に
向き合うことをやめたら
人として生まれた意義がなくなってしまいます。
 
 
人として生まれた今世というのは
非常にチャンスだといいます。
 
なぜならそれは
自分という生命体が生まれて此の方
どれだけ経つのかわからないけれど
 
その歴史の中で積み重ねたネガティブを
浄化させていくチャンス。
 
だから人は様々な課題に突き当たり
それをどう解決していくか
どう向き合っていくかで
その後の人生が開けたりもするし
 
できなくて来世以降へ持ち越し
今世すらも途中退場、棄権、
ということもありうる。
 
人だけが自己浄化できるのである。
自己浄化には様々な言い方があり
方法もあると思いますが
 
それを以て、
自分の今後の成長につなげていくことが
可能なのです。
 
それによって、来世どんな生命体に
生まれるのかという事も決まってきます。
 
その修行の全てが終わって
来世はもうこの地球には生まれない
っていう方々もいらっしゃいます。
 
 
 
 
その絶好のチャンスを
課題に向き合うことをやめて
方向性が違う力を以て
恐怖と課題から逃げたらどうなるか
 
ということの答えの一つが
鬼は消滅したらそれきりで終わり
ということだと思います。
 
生老病死がもたらす恐怖や
課題とは向き合わずにいくと
最後の大清算の時に
とんでもないことになりますよ、
という話になっていました。
 
ナポレオンが
世界には二つの力しかない。
剣と精神の力である。
 
そして最後は
精神が必ず剣に勝つ
 
といったそうです。
 
 
歴史上の偉人って大体は
徒手空拳じゃないですか
 
恐怖が原動力ではなくて
愛が原動力だから
そのための力を使わない
 
むしろ自分から
その身を投げ出す位のことを
当たり前のようにします。
 
そういう事についての言葉でもあると思いますが
これは動機が恐怖ではないからこそ
できることなんですよね。
 
動機が恐怖である限りは
恐怖が再生産されるだけで
課題の克服には至っていない。
 
自分がどのような成長を遂げていくか
動機が愛であるのか
意図は愛と成長であるのか
 
頭がぐるぐるしたりとか
どうしよう
どうしたらいいんだろう
ってなったら
 
そうやって自分に聞くことにします。
 
「それは愛が動機だから悩むのか
恐怖が動機だから悩むのか
どっちですか?」
 
きっと、これ重要。
 
大人も子どもも学校では教えてくれない
本当に生きていく知識を教える
本当の塾があったらいいよね。