健康を創る感謝と健康を害する感謝(感謝の方向性を確認する)
今日のテーマは、感謝の方向性(自分がしているその感謝の行く末)を確認する、という内容です。
感謝にも、健康を創ったり、長く維持してくれる感謝と、健康を害する感謝がある、と聞いたらどう思うでしょうか?
基本的には、感謝すること=絶対的にポジティブなこと、という信じ込みが私たちにはあるので、感謝が健康を害する、というのはなかなかイメージがわかないという方もいるかもしれません。
補足すると、ここでの「害する」というのは、感謝する行為そのものが害として働く(感謝してはいけない)という意味ではありません。
わかりやすく言うと、目的と手段が入れ替わること(←「ありがとう」と誰かに言うことが自分の目的・終着点となっていること)で生まれる弊害がある、ということです。
例えば、いつもミスを誰かにフォローしてもらったり、いつも誰かに助けられては「(尻拭いしてくれて)ありがとう」と言う自分が慢性化しているような時、「他力によって生かされている私」が多数派になっていないか、を疑う必要があるかもしれないということです。
例えば、
・お母さんにお尻をふいてもらう赤ちゃん
・要介護状態にありオムツ交換してもらう老人
この二つの同じ思考の型であり、相似形の現象です。
思考の現実化に当てはめて考えるとこう・・・
大人になっても潜在意識の中にこの赤ちゃんの思考(←「お母さんがお尻を拭いて当たり前/いつもお母さんは私のお尻を拭くべきだ!」)が大量に放置されたままアップデートされずに残っているとき、その潜在意識の中にある赤ちゃんの思考が、未来のタイムラインに要介護状態で誰かにお持つを交換してもらう老人の自分、を現実化してしまうかもしれない、ということです。
昨日の記事の中で書いた、病院で生命維持装置に繋がれてかろうじて生きているような状態(=他力によってただ生かされているだけの自分)などは、少しインパクトがある表現だったかもしれませんが、わかりやすいその極端な例の一つです。
この時、未来に起こりうることを変えるには、過去の信じ込み(自分の設定)をアップデートする必要があります。
思考の現実化(表層意識の願望実現)の観点からみて理想なのは、感謝するという在り方をアップデートしていくこと、
例えば、自分が出来ることを増やしていきながら、「いつも助けてくれてありがとう」と言うような同じ状況を減らしていくことです。
もちろん、自分で出来ることが増えることで感謝する機会が減る、ということでもなく、自分が成長するほど「ありがとう」と言う対象や、その理由(背景)は自然に変わっていくもの、というふうに考えます。
例えば、
・病院のベッドで寝たきりで身体十分に動かせずにスプーンでご飯を食べさせてもらってはそれをしてくれる誰かに「ありがとう」と言う自分と、
・(健康な自分が)毎朝、仕事に出かける前にいつもご飯を作ってくれる妻に「ありがとう(ごちそうさま)」と言う自分では、
同じ「ご飯を食べさせてくれてありがとう」と誰かに言う自分でも、その背景がまるで違います。
この時、前者と後者に大きな違いがあるとしたら、前者は表層意識レベルでの感謝であるのに対して、後者は表層意識レベルだけでなく潜在意識レベルで感謝が大量にあること。
後者は、潜在意識の中に大量に感謝があることで生ずる人生の背景である、ということ。
自分のする感謝が潜在意識レベルからくるものであれば、長く健康で生きて活動出来る自分を創造しますが、
表層意識のみの感謝であった場合、(それが言葉だけのものであったり、感謝の基準が赤ちゃん基準のままアップデートされていない状態が続いている時)、「ありがとう」と言うことが目的化していて、生命維持装置で延命されているような、文字通り、他力によってただ生かされているだけの自分を未来が突然創造される可能性があります。
どちらも「他力によって生かされている私」としては同じものですが、意図(前提)と感謝の在り方が違う為に、結果(ゴール・終着点)が異なるのです。
よくスピリチュアルや宗教に依存するほど、現実化能力が著しく落ちて自分がどんどん無力になっていく、とされるのはこのことと似ています。
自分の外側にいる絶対的な神様(万能ですごい誰か)がいることによって、「自分もそうなれるように努力しよう、成長しよう」と思うこともあるその一方で、
自分の外側に絶対的な神様を置くことによって今のままの自分(出来ることが少ない自分、無力な自分)を容易に肯定してしまえるという裏の側面もあること。
このとき知らずに後者に傾いてしまっている場合、自分がいろんなことを出来るようになることよりも、自分に出来ないことを誰かにやってもらい感謝することが目的化して、無力である故に誰かに助けられて感謝する私を知らずに現実化していくことがあること。
例えば、これと対極を考えてみると、本当に心から感謝している人(感謝の気持ちを行動として当たり前に体現している人)は、「日々生かされていること感謝してます!)」と外側に発信したりすることに多くの時間を使っていないのかもしれません。
もちろん、自分が今よりも成長することで変わる為の動機付けととして感謝ノートなどを自分用の記録として日々綴ったリ、感謝の祈りなどの儀式や瞑想の時間を日常生活の中に取り入れていることはあっても、それらの行為はその人にとってあくまでも起点に過ぎず、その先に繋がる今までとは違う何かしらの行動・アクションを必ず起こしています。これが願望実現の早い人。
ご先祖への感謝も同じように考えることが出来そうですよね!
もちろん感謝するという行事(存在にフォーカスするという行為)が先祖供養になる部分は確かにあるものの、それ以上のより深い先祖供養の在り方(その次の感謝の段階)がある、と考えてみること。
それは大抵の場合は、今ある境遇や立場の中で自分自身という存在を最大限に活かすこと、にやはり尽きるでしょう。
そうした在り方によって今現在を起点に、過去(ご先祖・遺伝子・歴史)がアップデートされていき、その☛時空の最先端にいる現在の自分に健康であるという前提や、新たな幸運や良縁が与えられる、という新しい人生のステージが展開していきます。
(※この時、多少なりの時間差あるので忍耐力はやはり必要です。。大抵その前兆では自分にとってムカつくことが登竜門の如く起こります)
ちなみに前回にブログで書いた、他人の境遇や人生を羨んだり、ズルいといつも思ってしまう自分は、この螺旋(新しい幸運や良縁が与えられる行列)から常に離れている(うっかり離れてしまった)という状態です。
お盆休みに合わせて、ご先祖への感謝について改めて考えアップデートする素晴らしいタイミングになることを心から願っておりますよ(←叶姉妹風)