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『三橋貴明の「新」日本経済新聞』
2014/05/17
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From 平松禎史(アニメーター/演出家)
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◯オープニング
経済を勉強し始めて「ドミナント・ストーリー」というのを知りました。
音楽用語のドミナントは聞いたことがありまして、例えばハ長調なら「ソ」で、主音(ド)の次に調性を決定づける重要な音。また、主調へ導く和音のことだったりします。
日本語訳するとドミナントは支配的、優先的という意味とのこと。
したがって、ドミナント・ストーリーは、自分を導くための「支配的な物語」とか「優先される物語」と言えます。
臨床心理学の言葉では、ドミナント・ストーリーそれ自体に良し悪しはなく、「物語」を語る患者の実際の体験(現実)などとの矛盾点を診ることで治療に活用していくものなのだそうだ。
経済問題で藤井聡教授や三橋貴明先生がこれを援用し、現実に合わない経済学や理論が信じられてしまう歪みを問うていらっしゃることは、このメルマガの読者なら説明するまでもなく、ご存知のことですね。
第二話『「明日を夢見て」~『物語』の罪深さ』
◯Aパート
『ウニベルサリア映画社は皆さんに素晴らしい未来と明るい将来を提供いたします。さあ家から出ましょう。成功を手にするのです!』
ジュゼッペ・トルナトーレ監督作品「明日を夢見て」、冒頭でオーディション(演技テスト)への参加を呼びかける主人公の台詞です。
この映画の時代は1953年。シチリアの小さな村を舞台に、映画に憧れた主人公が無垢な村人を巻き込んで自らの実現不可能な夢を自己肯定していく中で様々な人間模様に出会う。その末は?という物語です。
トルナトーレ監督の作品では「ニュー・シネマ・パラダイス」や「海の上のピアニスト」に比べるとマイナーな作品で、観られた方は多くないかもしれませんが、『物語』というキーワードを中心に、ネタバレ含みでガンガン書いていきましょう。とは言え、書ききれない面白いエピソードがたくさんありますけどね。
もし、このコラムを読んでから観たとしても、ボクとは違った感銘を受けると思います。
映画の見方はひとつではありませんからね。
ボクはこの映画に登場する無名のおじさんおばさんの顔、顔、顔…が大好きです。
× × ×
この映画の主人公ジョー・モレッリは、映画に憧れて映画会社に勤めるも夢破れ、オーディションをネタに小銭を稼ぐ詐欺師に成り果てた男。
小さなトラックに撮影機材を積み込んで小さな村々を巡っている。
その手口はこうです。
映画と言えば、たまに広場で上映される異世界の夢物語…としか知らない、映画の何たるかも知らないような村人を演技テストと称してカメラの前に座らせ、名画のセリフを喋ったものを撮影して、フィルムを「ローマの有名監督」に送り、「審査を通れば銀幕の新人スターになれる」「イタリアだけでなく世界で成功を手にできますよ!」と説明する。
演技テストに1500リラ頂くけどそんなの端金、スターになれば大金持ちだ。と夢物語を振りまいて稼ぐのです。
後で分かることですが、実際には村人を撮ったフィルムは映画会社に送られることはない。フィルムはすべて期限切れでした。
レックス・バクスターを発掘したのは自分だなんて言ってるんですから、映画を観る人には詐欺師だなとすぐに分かります。
でも、何も知らない無垢な人々は与えられる「物語」に酔い、次々と集まってカメラの前に座り、名画の台詞を喋る。
そのうちに、台詞ではなく自分の悩みや家族のこと、村の政治問題、恋話…など「自分の物語」を語り始める。
村人それぞれが持つ「物語」が、ジョーの持ち込んだ「映画スターへの物語」に乗せられて語られる。
最初はゲーム感覚で楽しんでた村人たちは、次第にジョーを尊敬して拠り所にし始めます。彼のカメラが、自分を開放してくれる唯一のツールなのだ、と。いつしかジョーは「先生」と呼ばれるようになります。
村人にとっては今まで口にするのが恥ずかしかった「自分の物語」が、ジョー先生の持ち込んだ「物語」を利用して語られ、ある種の力を持つに至った。
村人は、まるで自分が主人公になったような錯覚に陥っていく。
村人は、自分の頭で考えている、と錯覚して詐欺の手口に乗り、自らに使い、自らを縛っていくのです。
× × ×
ジョー自身の物語はどうか。
彼は自分の憧れを信じ続けている。
カメラの前に座る村人にアドバイスする言葉(専門用語や理論)は本物だ。しかし、彼はそれを詐欺に使っている。いとも簡単に騙される村人を軽蔑してもいる。
救いを求めてカメラの前に座る老人を撮った後、「本気で泣くヤツにはうんざりする」と口走ったりします。
愚かな村人を騙して自尊心を満足させ、出口のない現実から目を逸らすため、自己正当化に利用しているのだ。
「映画スターへの物語」なんて村人の誰も真剣に考えてはいないと知っている。自分を弾き出した映画界に唾しながら、映画界の手法で生計を立て、それを捨てられなくなっている。
二重の共依存です。
◯中CM
この映画を観たのは18年前。
「新世紀エヴァンゲリオン」に15話から参加していた頃でした。
トルナトーレ監督の「ニュー・シネマ・パラダイス」を勧めてくれた先輩と、たしか有楽町まで観に行ったのです。
当然「ニュー・シネマ・パラダイス」のような心あたたまる映画をを期待して観に行ったんですが、あまりにシビアな内容に、劇場を出てから二人共しばし無言だった記憶があります。(「ニュー・シネマ・パラダイス」の劇場公開版の印象はいわゆる泣ける系イイ話なんですが、後に観た完全版は「明日を夢見て」に連なる感覚がありました。)
映画ビジネスという移ろいやすいものに対して、歴史に裏付けられ、都会的な消費生活から離れた村人たちの生活は結局ビクともしないのです。
映画の視点は、村人たちの生活を肯定するでもなく、否定するのでもない。ジョーが去った後にはいつも通りの彼らの生活が戻ったのだと思えます。
ジョーも「どうせそんなもの」ということを知っていた。
…ボクらは一体何をしようとしてるんだろう?
会社をやめてフリーで仕事をし始めた30代前半。ちょこっと仕事が評価されはじめて楽観的になっていた時に食らった強烈なボディブローでした。
◯Bパート
「明日を夢見て」の原題は“L’uomo delle stelle ” 英語だとThe starmakerになります。映画スターを発掘する男、ですね。
「映画スターへの物語」
それが仮に嘘だったとしても、小さな夢を持たせてそれで金を稼いで何が悪いのだと彼は思うだろう。
村人たちは一時の熱狂を楽しんだ。カメラのお陰で言えなかった事を初めて口に出来たりもした。その対価を貰って何が悪いんだ。俺とあいつらの利害は一致してるんだ、と。
ジョーは、共産党員を名乗る男を車に乗せた時、賛助会員カードを売りつけられます。せめて印紙代500リラだけでもと頼まれ、しぶしぶ買ってしまうのですが、ジョーは共産党の男を「商売仲間」と言います。
「あいつら、あの手この手で騙しやがる。俺たちは商売仲間だな。人々の未来をつくる…」と。
フランス映画の「オーケストラ!」では、密かに共産革命を夢見ているロシアの共産党員が登場しますが、共産革命はすでにあり得ない滑稽な夢想として描かれていました。
「明日を夢見て」の時代、1953年は共産革命が実現可能な「物語」と思われてた時代ですね。
「銀幕の大スター」という「物語」も。
そんな夢「物語」を積み込んだトラックを走らせている間、彼は彼の物語を信じ続けることができていた。
いや。映画監督になんかなれない、という現実を直視しないための時間稼ぎ、言い訳づくりの旅と言えようか。
村人を騙すため、まず自分自身を騙していたのだろう。権威というマスクを付けて。
…それで良かったのです。
× × ×
そこに一人の少女が現れる。
彼女は孤児で、村人からも馬鹿にされるほど純真無垢そのもの。別な言い方をすればちょっと頭が弱いようにも見える。
ジョー(の物語)を信じ、村の生活という出口のない「物語」を飛び出して「自分だけの物語を作ろう」と、「彼にしか実現できない」と、どこまでも追ってくる少女。
少女に情が移った時、「映画人への憧れを保守し続けるためのやむを得ない詐欺行為」というジョー自身を正当化する「物語」が崩れ始める。
ジョーは、自ら作り出した「物語」への期待が重荷になると村を移動していました。
「救世主」を求める人々と、それを内心では恐れるジョーの観せ方は非常に巧い。
決して村を出ることはない人々との共犯関係は、村を飛び出した少女に直面した時、つまり、自ら作り出した「物語」の枠を飛び出した少女=「現実」に直面した途端、崩壊し始める。
彼は、現実から目を逸らす者たちとの共犯関係でしか生きられなかったのだ。
決してそこから出ないとわかっている人たちに対してしか自らを保てなかった。
飛び出して付いてくる少女は、彼にとって想定外の出来事、本当は見たくない「現実」だった。
× × ×
映画監督が「明日を夢見て」のように、作り手の葛藤を作品にする心理というのは、ある意味、誠実だと思いました。
社会派ドラマなどという大上段ではなく、一人の映画作家としての立ち向かい方をエンターテイメントとして(色っぽいシーンも…)描いている。
真剣で誠実だからこそ、普遍性を持ち、多くの示唆を与えてくれる作品になっているのです。
映画に対する立ち向かい方というのは様々ありますが、アニメーションの分野で、その末席に位置して30年経ったあと観直すと、どうしようもなく儚く小さい、まるでジョーのトラックのように、ゴトゴトと騒々しい割にちっとも進まない心許なさを感じてしまいます。
現実の世界もそれに似…
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