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メルマガ「遥かなり台湾」
本日のテーマ~私と台湾
配信日 2014/01/06(月)
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皆さん、新年明けましておめでとうございます。
本年最初の配信記事を何にしようかと考えているときに、以前ネットで知り合った方から台湾についての手記をいただいたことを思い出し、本日はそれを紹介したいと思います。
作者は横浜在住の永峯さんという女性です。
●私と台湾
私の母の両親は台湾出身です。つまり、引揚者です。終戦を迎え、あっという間に60年以上の月日が流れて行く今でも、私の祖父母が故郷と呼べる場所は台湾です。
祖父母は、終戦後お互いの両親の出身地である鹿児島に移り住みました。私は、子供の頃から、毎年祖父母の家に行っては、祖父母の故郷の話しを聞くのが好きでした。
祖父は新竹出身で、祖母は彰化生まれ台中育ちです。お互い育った時代や風景などは、多少異なりますが、故郷を思う強さは比べられないほどです。
祖父がよく話してくれた事は、新竹で牧場を家族で経営していた時、朝が早くて大変だったけれど、自分の家で作っている牛乳がおいしかったこと。自分が獣医を目指した理由や、台湾の果物はとても種類が豊富で美味しかったこと、友達と喧嘩をしてお腹を噛まれたこと等、色々と話してくれました。
また、祖母は幼い頃、台湾人のお手伝いさんにお世話になっていたらしく、台湾語を話していたこと。
台中公園で、大好きな父親と二人でボートに乗ったこと、当時父親が自分の通っている小学校の校長先生だった為、朝の朝礼では姉妹で喧嘩した事を話され恥ずかしい思いをした事。台中の田舎から、明治小学校に転校したこと。親から買い食い禁止と言われていたのに肉圓売りが来ると、そっと鍋を持って買いに行って、部屋で食べたこと等を話してくれました。
その様な話しを聞く度に私は、大人になったら台湾に行ってみたいと思いました。祖父母自身は、終戦後一度も故郷に足を踏み入れた事がありません。自営業(獣医)を営んでいた為、忙しくて行くチャンスがなかったように思われます。今から10年前に祖父は他界しましたが、祖母は、何とか元気で過ごしています。それが私自身、台湾に行こうと決意した理由です。
私が、台湾に初めて訪れたのは今から6年前、社会人1年目の12月28日でした。辺りは、クリスマスの余韻が残っており、ツリーやサンタの人形が美しく彩られており、日本では、クリスマスが終わると直ぐに正月の準備をするので、不思議な光景に感じました。
滞在2日目に、自強号に乗って新竹へ行きました。新竹に到着したものの、どうやって祖父が過ごした赤土崎に行けば良いのかが分からず、駅員さんに「日本語喋られる人がいませんか?」という中国語で書いた一枚の紙を差し出しました。すると、駅の構内を大声で「日本語喋られる人いませんか?」と丁寧に探してくれました。どれくらい時間が経ったかは、定かではありませんが、一人の現地の老人が名乗り出てくれました。理由を話すと快く引き受けてくれました。そのあと新竹市政府に行って戦前、私の先祖が赤土崎で牧場していた跡地も行く事が出来ました。祖父が育った場所に初めて訪れた時、やっと行けた。という気持ちと、祖父はどんな気持ちで、故郷を離れて行ったのかな…という、何とも言えない複雑な気持ちが胸に突き刺さりました。その老人とは、何度か文通のやり取りを日本語でしていました。
翌年は、その老人に私の祖母の故郷、台中に連れて行って頂きました。そこでは、祖父母が働いていた市政府や祖母が子供の頃訪れた台中公園にも、連れて行ってもらいました。市政府の建物を目の前にした時、圧倒されてしまい、ただ…「凄い」という言葉しか出て来ませんでした。戦前の建物をここまで、美しく残せる台湾の人に、感激も覚えました。また当時の日本人は、現在の日本人よりも建築技術が優れていた事に驚かせられました。台中公園に行くと、ボートが置いてあり、それを見た瞬間、祖母が語ってくれた子供頃の楽しい記憶が蘇りました。まるで、当時の祖母の笑い声が聞こえてきそうな、感覚になりました。
それからというもの、私は友人と訪れたり、母と訪れたり、また一人で台湾に訪れる様になり今年で、祖父母に代わっての8回目の里帰りをすることが出来ました。
やはり、祖父母が育った故郷を訪れる度に、胸が熱くなります。あの時の祖父母が、台湾で生き続けていると思うからです。
また、今年も大好きな台湾に縁を頂き、11月1日~4日まで行くことができました。
旅立つ前に、鹿児島にいる祖母に「今年も、台湾行くよ。」と電話で話すと、「良かったね。」と嬉しそうに言ってくれました。祖父母が行くことが出来ない分、私が祖父母の思い出の足跡を、辿ろうと思って歩きました。しかし、自分自身の思い出も一緒に刻みこまれて行く嬉しさもありました。また、私が歩いた足跡が時代を超えて、祖父母が辿った足跡と重なる瞬間があったようにも感じました。
今回は、あるきっかけで、台中に住んでいる日本人の方と知り合うことができました。その方のお陰で、台中市内をバイクで散策する事が出来ました。まるで、ジブリの世界にスリップしたかの様な、不思議な気分を味合う事が出来ました。また、祖母の母校である明治小学校の元校長先生とも、お会いする機会もいただきました。その方と三人で祖母の母校にも行くことが出来ました。学校は、戦前とあまり変わらない姿で堂々と建っていました。中に入ると、教室を挟んで二つの廊下がありました。現代の日本でも考えられない、繊細で尚且つおしゃれな造りに、映画のワンシーンの様に感じました。他には、祖母の姉の母校、第一高等女学校や、祖母と祖母の妹の母校、家政女学校にも案内をしてもらいました。戦前の面影はなくなっていましたが、確かに存在している事に嬉しさが、込み上げてきました。それから、祖母と同じ母校の卒業生と会う事が出来ました。その方と話した中で、印象に残っているのは、「終戦が来るまで、自分は日本人だと思っていた。」という言葉です。以前、
父からそういう方が居た事は知っていましたが、実際にその様な方を目の前にした時、言葉が詰まりました。どんな言葉を彼女にかけてあげれば、彼女の心に伝わるのかが、自分の心の中に答えが見つかりませんでした。
当時、彼女は小学六年生だったそうです。小学六年生とういうと、思春期を迎える直前、多分…その事実を理解するまで、とても時間がかかったと思います。大人たちから、「あなたの祖国は、日本だよ。」と教育を受けていたからです。あの時、大好きな友人や先生と別れなくてはならない辛さや悲しみもあったと思います。台湾に残る側、去っていく側、どんな思いが込み上げていたかは、私たちが想像を絶するものだと思います。
戦前、台湾は日本の植民地でした。唯一、同化に成功した国でもあります。しかし、戦争という身勝手な方法で傷ついた人たちが沢山居たことも確かです。また、日本人の警官が威張っていて、弱い立場である農家の台湾人をいじめていた事も確かです。日本が負けて、台湾の人から「四等国民」と言われた事も確かです。また、台湾人とか日本人とかの枠を超えて、人として繋がっていた人が居た事も確かです。日本と台湾との関わり、歴史を通してでも切っても切れない縁であるのが事実です。歴史背景だけはなく、戦前の日本人側からの目線だけではなく、台湾人側からの目線も、きちんと知る必要性がある事を、今回の旅で学びました。また、現代の日本人が忘れかけている、暖かい優しさにもふれて、思いやり…という大切さを再確認する事もできました。
しかし…どんな事実を知っても、私は台湾が好きな事に変わりはありません。相手を好きになるという事は、どんな姿をみても好きでいる事ではないでしょうか?
まだまだ、私が知らない事実を秘めている台湾。とても興味深い国だと思います。
永峯 美津保
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