(新)軍事情報特別連載「大正時代の陸軍(1)——歩兵第1連隊脱走始末記」荒木肇 | My Flame

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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官でもあります。
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こんにちは。エンリケです。

ヤバいです。
めちゃくちゃ面白いです。
この連載。

・・・

(エンリケ)

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                 荒木 肇
『歩兵第1連隊脱走始末記——大正時代の陸軍(1)』
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□ご挨拶

 長かった明治は45年で終わりました。明治大帝がお隠れになったのが7月30日のことでした。新しい元号は大正になり、1912年がその始まりになりました。今年は101年目になったのです。

 この年、どんなことがあったかを調べてみました。鉄道では大きなできごとがありました。信越線の横川と軽井沢の間が電化され、急こう配のトンネルの中で煙にまかれる機関士たちの苦労がなくなりました。有楽町にはタクシー会社が設立されて、T型フォードが6台走り出します。浅草では初めての西洋式酒場「神谷バー」が開業。金子海軍大尉がフランスからファルマン水上飛行機2機を持ちかえる。

 身近なところでは、パンにバターやジャムをつけて食べることが一般化する。小田原のかまぼこに初めてグチが使われて、身が白く粘りがあると大人気。以後、かまぼこが小田原の名物になりました。女性のための美容院ができる。タオルという言葉が使われ始める。フルーツパーラーの元祖「千疋屋」が新橋に開店する。横浜の映画館、オデオン座で映画の「封切」という言葉が初めて使われます。

 いまあるものは大正時代にはほとんどがありました。教育制度も義務教育は小学校尋常科の6年間、それに自由に進める高等科の2年が整備されました。中等教育は中学校、各種実業学校、高等女学校がそろいます。また、高等教育の拡大もあり専門学校、実業専門学校、高等学校、大学とシステムもほとんど現在と変わりません。

 政党政治も一応は行われ、大正の初めには護憲運動があり、最後には政党内閣もスタートする。都会にはサラリーマンが増え、世界大戦のおかげでバブル景気もありました。核家族、親不孝、自由恋愛、援助交際、不登校なども全部あったことが当時の人生相談からも分かります。

 さて、戦争とは前の戦争とのつながりで考えなければなりません。日露戦争を知るには日清戦争を、また日清戦争を知るにはその前の朝鮮での壬午軍乱、また西南戦争、そして戊辰戦争を調べなければいけないのです。

 今回から、大正時代の陸軍について研究メモを残したいと思います。

▼「坂の上の雲」の先は深い霧だった

 日露戦争はかろうじて勝利に終わった。政府や軍はいい潮時と考えたが、一般「市民」はそう思わなかった。増税や多くの肉親や知人を失った苦しみがあった。
長い間の戦争に勝利した、賠償金も取れるだろうし、ロシア領土の割譲もあるだろう。そう期待したのも無理はない。日清戦争のあとの賠償金や台湾や澎湖島などの割譲で意気は大きくあがった。今度もまた、大きなご褒美があるに違いない。しかし、そうした期待は裏切られた。そこへ新聞が先頭にたって世論をあおった。講和反対の暴動である。政府はなんとか国民の不満をなだめたが、「坂の上の雲」は峠にたどりついたら未来は深い霧の中に沈んでいた。

 日露戦後はアノミー(無規範)の時代といわれる。国家が目標を失い、国民が一体感をもって進むという気分はすっかり無くなってしまったのだ。すでに日清戦争後には産業資本主義がほぼできあがり、日露戦争を遂行した努力はさらに次の段階にわが国の経済を進めてしまった。大国ロシアに勝利し、「一等国になった」と浮かれる気分もある半面、厳しい国際社会の中に放りこまれた不安。それが日露戦後の社会だった。

▼赤坂檜町、5中隊の古年兵脱営す

 1908(明治41)年、桃の節句3月3日の午後8時30分、赤坂歩兵第1聯隊は日夕点呼(にっせきてんこ)が無事におわった。8時50分、営庭に銃を肩にかけ帯剣した喇叭手が中央の位置にすすんだ。9時、兵科・番号・隊を表す号音から消灯ラッパは始まる。まったく同時刻に道路をはさんだ反対側の麻布歩兵第3聯隊でも消灯ラッパが吹きならされた。

 いまの東京都港区とは明治のころの赤坂区と麻布区がまとめられたものだ。首都高速の下、その六本木通りとの交差点、ほぼ直角に北へ外苑東通りを乃木坂の方向に向かえば現在は「六本木ヒルズ」といわれる高層ビルが建っている。そこには以前、防衛庁があった。そこが頭号(とうごう)師団の頭号旅団、その頭号聯隊といわれた歩兵第1聯隊の兵営である。

 第1師団第1歩兵旅団第1歩兵聯隊という、ヘッドナンバー聯隊。全国の歩兵聯隊の中でもただ一つ、聯隊旗をふつうの黒布ではなく錦のカバーをかけることを許されていた。そんなことを知る人も少なくなった。いまでは陸上自衛隊の練馬駐屯地、第1普通科連隊がその気分を引きついでいることを知る人がいるくらいだ。
 
 六本木交差点の四つ角に立ってみる。明治の昔、周りはすべて麻布区だった。そこから以前の防衛庁正門(当時は歩兵第1聯隊の正門)に向かえばおよそ200メートルで赤坂区との境界になった。道路の左側は麻布区で、左に曲がる道を歩いて行けば歩兵第3聯隊の正門になる。
 
 3聯隊の裏側には青山墓地が広がり、そこの間に街鉄(がいてつ)とよばれた路面電車が走っていた。ただし、今の荒川線と同じで専用軌道になっていた。広尾から天現寺へ通じ、反対側に行けば権田原から信濃町、四ツ谷塩町(いまの四谷三丁目)に通じている。街鉄とは夏目漱石の名作「坊っちゃん」の主人公が、松山から帰ってきて技手(ぎて)となった東京市街鉄道のことである(明治44年に東京市営となる)。
 
 歩兵第1聯隊第5中隊の不寝番石井一等卒が異常を見つけたのは9時15分ころだった。2階建ての兵舎には一棟に一個中隊が入っている。階下には中隊事務室や将校室、陣営具倉庫などと新兵たちが暮らす給養班の一部の部屋がある。階上はすべて古年兵たちが寝ているはずだった。まず、階下の前年の12月1日に入営したばかりの新入隊兵はすでに眠っていた。階段を上がってみると、2年兵と3年兵がいるはずだった給養班のベッドには誰もいなかったのだ。
 
 9時20分、週番特務曹長だった中橋はその報告を受けた。ただちに週番下士を連れて古兵の班である第1と第2の給養班を見に行った。すると報告通りそこにもぬけの殻だった。中橋はただちに週番下士に命じて下士、上等兵の全員を起こして集合させた。
「まず、営内を捜索せよ。古兵どもが何か悪さをたくらんでいるに違いない」
 
 中橋はその日の大久保射撃場での訓練の様子を思い浮かべていた。きつい訓練だった。戦場帰りの中隊長代理、猪熊中尉の教育は猛烈をきわめた。射撃の基本は据銃姿勢にある。そう信じている猪熊中尉は一日中、射撃場で実弾を撃たせ、成績不良の兵には据銃練習を繰り返させた。しかも古兵たちは大久保から檜町までおよそ6キロの道のりを完全武装のうえ、駆け足でもどってこさせられたのだ。営庭に帰ってきたとたん、ぶっ倒れた兵卒が2人も出た。
 
 命令を受けた上等兵や下士はただちに行動に移った。すぐに報告が入った。新門といわれた檜坂方向に出られる門の衛兵からの聞き取りである。
「報告します。9時50分ごろ新門を徒手帯剣脚絆の部隊およそ3、40名が営外に出たそうであります」
 このとき、外へ出たのは3年兵と2年兵、合わせて32名だった。そして、中橋や下士、上等兵たちが行動している間に、あと5名が先行した者たちと合流するために新門を通過していたのである。営外に出た兵卒は合計37名にもなった。
 
 中橋はただちに表門の衛兵所に行った。目撃した衛兵はすでに交代し、いまは衛兵所にいるはずである。衛兵司令とともに聞き取った事情は次の通りだった。
「時計で確認してはおりませんが、ほぼ9時40分頃であります。約30名あまりと思われました。やや、隊形は乱れてはおりましたが、4列ないしは3列の側面縦隊で駆け足で通過したのであります」
 
 中橋はここで第5中隊の古年兵が集団脱営したことを確認した。まず、中隊長代理猪熊中尉、ほかの中隊附将校にも緊急の伝令を派遣する。同時に、中隊の下士、上等兵に営外捜索の準備を命じた。

▼軍人と階級について

 読者の皆さんが陸軍にいだくイメージの大方は昭和戦前期、あるいは大東亜戦争中のものだろう。そのころの映画はずいぶん作られているし、小説なども多くが発表されている。あるいは関心の高い方は戦記ばかりか専門の研究書まで読まれているかも知れない。

 しかし、制度はしばしば変わる。制度が変われば組織の常識が変わり、その中にいる人間にとって、当時のふつうの出来事についてほとんど記録を残さない。そうなると後世ではなかなか実態がつかめない。そこで、面倒だと思う方もおられようが、当時の陸軍の制度、つまり大東亜戦争からおよそ30年前の様子について説明しておきたい。

 まず陸軍の機構である。陸軍の機構は大きく分けて官衙(かんが)と軍隊にわけられる。官衙というのはふつうにいう役所だけでなく、学校、工場、司令部もふくんでいる。軍隊は聯隊以下の諸隊である。師団や旅団があるではないかと思うだろうが、師団や旅団には司令部しかない。師団や旅団は軍隊の集合体であって軍隊とは当時いわなかった。

 陸軍に勤務する人は軍人と軍属に大きく分けられる。軍人は武官と兵卒である。武官とは判任官以上の身分をもち階級をもっている人をいう。陸軍ではとくに幹部といった。いまの自衛隊は将校だけを幹部というが、昔は下士官も幹部である。

 軍人は戦うことを主任務とする各兵科と、軍隊の運営を円滑におこなうための各部に分かれて所属した。兵科は軍事警察の憲兵もいれて歩兵、騎兵、砲兵、工兵、輜重の六兵科である。うち砲兵は野戦砲兵と要塞砲兵に分かれた(のちに大正時代には野砲兵と野戦重砲兵になった)。各…

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