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『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
平成25年(2013)10月8日(火曜日)
通巻第751号
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三島研例会講演録 (平成二十五年八月三十日)
学徒出陣70周年に想う ~学徒出陣とは何か
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玉川博己(弊会代表幹事、慶應義塾戦没者追悼会代表幹事)
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はじめに
私は最近数年母校である慶應義塾大学やその他の大学における戦没学徒の慰霊追悼にかかわってきている。私は何故戦争と学徒出陣のことにこだわるのか。
それはまず十五年前に他界した私の父がまさに学徒出陣の世代であったことから、父の青春と戦争のことに対する思いが強かったこと、 また戦後日本における戦争総括の不在と英霊追悼の不徹底、そしていまだ根強く残る東京裁判史観とコミンテルン史観の呪縛を打破したいこと、最近では靖国神社参拝問題にみられる外国から干渉をうける「歴史認識」と「英霊追悼」の問題が私の意識に大きくのしかかっていることがあげられよう。
また三島由紀夫先生もその作品において英霊、とくに特攻隊英霊に対する熱い思いを書き残している。(『英霊の聲』)更に戦後の戦記文学の傑作である吉田満著『戦艦大和ノ最期』に寄稿した跋文はこれまた見事な名文である。
英霊を英霊として尊崇する民族は決して滅びず、英霊を忘却する民族は衰亡するというのが私の考えである。そもそも国家のために戦い、戦いに斃れた戦士を尊崇の念をもって慰霊追慕することは古今東西を問わず世界いずこでも行われてきたことである。日本と同じ敗戦国のドイツでも然りである。否むしろドイツでは戦争中に授与された鉄十字勲章を戦後も軍人の武勲の印として佩用することが認められている。金鵄勲章が一切効力を失った日本とは大きな違いである。
1.戦争と大学・学生
第一次世界大戦は史上初めて「総力戦」が出現した戦争であった。従来の常備軍が戦場で勝敗を決するというナポレオン型の戦争から、国家が総力をあげて戦うという「総力戦」の登場は前線と銃後の区別をなくし、何百万、千万単位の動員が行われることとなった。この「総力戦」の本質を体系理論化したのが第一次世界大戦でドイツ陸軍の参謀次長として実質的に戦争を指導したエーリヒ・ルーデンドルフであった。第一次大戦後ルーデンドルフは著書『総力戦』において政治を含めた国家の総力が戦争に投入されなければならないとした。
これは「戦争は他の手段をもってする政治の継続である」としたカール・フォン・クラウゼヴィッツの『戦争論』のテーゼを倒錯させるものであった。ちなみにこのルーデンドルフの『総力戦』理論は日本においても石原莞爾や永田鉄山を中心とするいわゆる陸軍統制派に大きな影響を与えたといわれる。
一方で膨大な植民地を抱える米英は資源確保と大消耗戦への対応に平時から全力をあげることを国家の方針とした。更に平時から動員態勢を整え、その一環として大学生を予備将校として教育訓練する予備将校訓練制度(米国のROTC,英国のOTC)の強化が図られた。
また第一次世界大戦末期のロシア革命で誕生したソ連では赤軍の創設者であるトロツキーや赤軍の参謀総長トハチェフスキー元帥らによって総力戦を前提とする赤軍の建設と軍事ドクトリンの形成がすすめられた。
日本においても大正十四年に学校軍事教練が開始された。これは軍縮によってリストラされた将校を配属将校として採用するという失業対策措置という一面もあった。昭和期に入ると、陸軍統制派を中心に国家総力戦にそなえた高度国防国家や広義国防国家を目指すべきとの議論が高まってきた。しかし日本における学校教育の欠陥は真の軍事教育が欠如していたことであった。
米国を例にとると予備将校制度(ROTC)から軍隊に入った将校で優秀な者は士官学校卒業の者と同等に扱われた。例えば、日本空襲を指揮し、戦後空軍参謀総長にまでのぼりつめたカーチス・ルメイ大将も、湾岸戦争を統合参謀本部議長として指揮し、後に国務長官もつとめたコリン・パウエル大将もウエスト・ポイント(陸軍士官学校)卒業ではなく、右のROTCを通じて一般大学から陸軍に入隊した経歴を持つ。この辺が軍隊の人事に関する米国の柔軟性を示すものであろう。
更に一般大学における軍事教育についていえば、現在日本の大学で防衛大以外に軍事学の講座を持つ大学がどれだけあろうか。それゆえ今の日本の政治家で軍事を理解する者が何人いるのだろうか。これにひきかえ、例えば中国では大学教育においてみっちりと軍事学が必修科目として教え込まれる。殆どが軍事に無知な日本の政治家に比べて胡錦濤も習近平も李克強も大学においてもクラウゼビッツやマルクス、レーニン、毛沢東の軍事思想から現代戦の理論までしっかりと学んでいるのである。この面では日本は絶望的に遅れているといえよう。
2.大東亜戦争と学徒出陣
早くから欧州大戦への参戦と対日戦を決意していた米国では、昭和十四、五年頃から軍備の大拡張に着手するとともに、大動員態勢を整えていった。そして昭和十六年の初頭からROTCを通じて大学生の動員に着手し、同年末日米開戦と同時に全米の大学生を動員し、大量のパイロットや下級将校の育成を図った。従って、米国における「学徒出陣」は日本より実質三年前には始まっていたということである。
実際昭和十七年の夏米軍がソロモン戦線で反攻を開始した頃、大学生のグラマン・パイロットや小隊長クラスが続々と戦場に出てきていることを当時の陸海軍は承知していたがその意味するところを悟ったのは更に一年遅れた昭和十八年夏であった。
日本にはそれまでにも予備学生制度や短期現役士官などの制度があったが、ようやく昭和十八年十月に在学徴集延期臨時特例(勅令第七五五号)が公布され、全国の理工科系を除く学生が同年十二月に陸海軍に入営・入団することとなった 昭和十八年十月二十一日東京の神宮競技場において出陣学徒壮行会が挙行された。その光景は今でも「日本ニュース第一七七号」や文部省製作の記録映画「学徒出陣」でも見ることが出来る。
3.私の父の戦歴
この時、東大経済学部の二年生であった私の父も学徒出陣で陸軍に入営している。まず熊本師団に入営した父はすぐに幹部候補生となり、熊本陸軍予備士官学校に入校、更に満洲の奉天甲種幹部候補生隊に転属して教育を受けた後昭和十九年末に見習士官となっている。そのときの父の写真が残っているが、曹長の階級章に見習士官の座金をつけ、長靴を履いて軍刀を抱えた姿は初々しいい。父は十五年前に他界したが、この写真は今でも私の自宅の机上に飾っている。 当時の予備士官教育の内容を父に聞いたことがあるが、旧態依然たる精神主義と作戦要務令への固執、そして圧倒的な米軍の物量作戦に対する絶望的な認識とこれに抗する一層の精神力の鼓吹というのがその内容であった。
さて昭和二十年一月父は他の将兵とともに沖縄第三十二軍への増援部隊として派遣されることとなった。そして朝鮮、九州を経て沖縄へ向かった計十隻の輸送船団は米潜水艦の待ち伏せ攻撃にあい、父の乗った一隻を残して悉く撃沈されたとのことである。ようやくの思いで沖縄に上陸した父は首里にあった第三十二軍司令部に配属され、通信参謀の補助をすることとなった。だから牛島満軍司令官や長勇参謀長も間近で接する機会があったという。父は同年三月末米軍の沖縄来寇直前に暗号書をもって宮古島守備軍に出張することとなったが、その直後米軍は沖縄本島に殺到した。結局父は終戦まで宮古島守備軍にいることとなった。終戦時の階級は陸軍少尉である。
父は司令部にいたこともあって沖縄防衛の経緯についてはよく知ることが出来たという。本来沖縄は三個師団と一個旅団で防衛する計画で、敵の上陸正面と予想された北・中飛行場(現在の嘉手納基地)を敵手に渡さぬよう水際で敵を殲滅する作戦であったという。しかし昭和十九年十月の台湾沖航空戦がきっかけとなって、沖縄防衛の要であった精鋭第九師団(金沢、通称武兵団)が台湾に抽出されることになり、これで沖縄防衛計画が大きく狂ってしまった。結局第三十二軍は水際防御を諦め、島尻地区で抗戦持久するという作戦に方針を転換したが、その場合に県民を本島北部に疎開させるとか様々な検討が行われたが、米軍の来寇が予想以上に早かったこともあり、結果的に県民を巻き込んだ凄愴苛烈な戦闘となり軍民合わせて二十万余の犠牲を出したことは遺憾の極みである、というのが沖縄戦に関する父の所感であった。
4.出陣学徒の戦いと戦後における戦没学徒慰霊
学徒出陣で陸海軍に入った学生達が教育を終えて実戦に配置されたとき、すでに戦況は絶望的な状況であり、もはやまともな戦法で敵と戦うことは不可能な状況となっていた。それでは当時出陣学徒達は如何に戦ったのであろうか。私は五年前から母校慶應義塾大学で戦没学徒の慰霊活動に取り組んでいる。その中で多くの先輩学徒達のことを調査し、また遺稿をできるだけ多く読むようにしてきた。その何名かを紹介する。いずれも戦死時は年齢二十二、三歳である。
塚本太郎海軍大尉は学生時代、慶應大学の水球部のエースとして活躍したスポーツマンであった。学徒出陣で海軍に入った塚本少尉は人間魚雷「回天」の部隊に配属されたが、長男の理由でなかなか出撃部隊に加えられず、ついに自ら血書嘆願をもって出撃に加えられた。そして昭和二十年一月人間魚雷回天「金剛隊」の隊員としてウルシー泊地の敵艦隊に突入散華されている。特攻戦死により二階級特進。
上原良司陸軍大尉は戦没学徒遺稿集『きけわだつみのこえ』の冒頭に紹介されているのでよく知られている。クローチェを愛読し、自らを自由主義者として憚らなかった上原少尉は昭和二十年五月陸軍特攻・第五十六振武隊として沖縄沖で突入散華されている。
宅嶋徳光海軍中尉は昭和二十年四月金華山沖で海軍パイロットとして敵と交戦戦死されている。生前に書きのこした文章が戦後遺族により遺稿『くちなしの花』)としてまとめられている。瑞々しいその文章は読む者を永遠に感動させる。
古谷眞二海軍少佐はかつて本誌で紹介したこともある。三島由紀夫先生が自決の一か月前江田島の資料館で偶然手にとった古谷中尉(戦死時)の遺書を読んで、感動、嗚咽したと伝えられている。古谷眞二中尉は学生時代はスキーやウクレレなどが好きな典型的な慶應ボーイであり、その写真を見ると現代でも大学キャンパスで見かけるような明るい青年であった。しかし海軍に入隊した古谷中尉は人間爆弾桜花特攻の神雷部隊の一員として昭和二十年五月、沖縄周辺海域に突撃、壮烈な最期を遂げられている。
戦後まもなく、戦没学徒の遺稿集として日本戦没学生記念会(わだつみ会)から『きけわだつみのこえ』が出版され、ベストセラーとなった。しかしこの遺稿集は左翼反戦平和運動という政治的立場から、恣意的な編集と故人の遺書,遺稿を勝手に切り貼りして編集者の都合のよいものにしたとして厳しく批判されることになった。戦後はGHQの占領政策と東京裁判による一方的な日本断罪、そしてこれに呼応した左翼勢力の跋扈により、大学において戦没者を慰霊追悼しようとすることがタブー視された。たとえば東大では戦没学徒慰霊のため「わだつみ像」を学内に建立しようとする動きがあったが、時の南原繁総長は「大学の学門研究とは関係がない」としてこれを拒否している。その後東大では卒業生有志により慰霊碑が建てられたが、これとて本郷の赤門前の通りをはさんだ向かい側の民有地にある。ハーバード大でもオックスフォード大でも立派な戦没者慰霊施設があるので日本の最高学府たる東大には何もないのである。
その後年月を経て各大学では戦没学徒慰霊の機運が高まってきた。現在筆者が承知している大学キャンパス内に慰霊・追悼碑が存在するのは、一橋、早稲田、慶應、國學院、拓大、東洋大、小樽商大くらいである。そもそも学徒出陣で一体どれだけの学生が戦場に赴いたのか、また何人戦死したのかも正確な記録がないのである。学徒出陣の数は十万とも十三万ともいわれているが、あくまで推測の数字である。また大学で出身学生の戦没者名簿をつくっている大学もごく僅かに過ぎない。
その意味で戦後の日本の大学は戦没者、英霊を徹底して無視してきたし、今でも戦没者の追悼という話になると「侵略戦争の加害者を追悼するのは問題がある」とか「中国・韓国からの留学生の反日感情を刺激する」とかおよそ理解しがたい言説が聞かれるのである。しかし目を海外に転ずればいずれの国においても戦没者は国のために戦った英霊として尊崇され、そのための慰霊碑や記名碑が見られる。
5.大東亜戦争の真の総括について
戦後日本では東京裁判によって戦勝国による一方的な日本の断罪が行われ、これに便乗する左翼勢力によるゆがんだ歴史観がマスコミや学校教育でも跋扈した。しかしそれでは戦後日本人自身による真摯で主体的な戦争の総括が行われてきたのか、という疑問を私は持つのである。
私は林房雄の名著『大東亜戦争肯定論』を貫くいわゆる百年戦争史観を支持する。しかし一方で、大東亜戦争において軍人・軍属・民間人併せて三百十万もの生命が失われたのである。敵が原爆という非人道な兵器を使ったとか、東京大空襲やソ連の満洲・樺太侵攻を非難しても、本質的な回答にはならない。一体当時の国策や戦争指導のどこが間違っていたのか、陛下の赤子をかくも多く戦争で失ったことの原因と責任がどこにあるのか、を我々日本人の手で行うべきではなかろうか。
戦後、とくに多くの軍人によって戦史や戦記が書かれてきた。たとえば服部卓四郎大佐による『大東亜戦争全史』は前篇名文で綴られた戦史の傑作であると思う。しかしノモンハン事件における関東軍の作戦参謀であり、大東亜戦争では前後二回にわたって大本営作戦課長をつとめた服部大佐の文章を読むと、名文の中にどこか責任の所在や失敗の本質が何処にあるかが曖昧
にされている、という疑問を感ずる。服部卓四郎大佐とのコンビで名高い辻政信大佐の多くの戦記物も同様である。辻大佐は著書『ノモンハン』の中で敗北の責任を関東軍の手足を縛った陸軍中央に転嫁している。およそ軍人の書いた戦記は、迫真性はともかくそこに恣意的な記述や自己弁護、責任転嫁がないか、よく注意して読むべきと思う。源田實大佐や瀬島龍三中佐などの書いた書物も然りである。
本論を結ぶにあたって、英霊が愛する祖国と家族に寄せた思い、そして三島由紀夫が英霊に対して寄せた思いを今一度我らのものとしてあの戦争と学徒出陣を想うことにしたい。
参考
吉田満『戦艦大和ノ最期』に寄せた三島由紀夫の跋文
一読者として 三島由紀夫
「感動した。日本人のテルモピレ-の戦を眼のあたりに見るようである。いかなる盲信にもせよ原始的信仰にもせよ。戦艦大和は、拠って以て人が死に得るところの一個の古い徳目、一個の偉大な道徳的規範の象徴である。その滅亡は、一つの信仰の死である。この死を前に、戦士たちは生の平等な条件と完全な規範の秩序の中に置かれ、かれらの青春ははからずも『絶対』に直面する。この美しさは否定しえない。ある世代は別のものの中にこれを求めたが、作者の世代は戦争の中にそれを求めただけの相違である」。
古谷眞二海軍中尉(慶應義塾大学。戦死後海軍少佐に二階級特進)の遺書
遺
皇國の一男子として生を享けて以来二十有余年、國を挙げての聖戰に勇躍征く事を得ば男子の本懐、正に之に過ぐるものなし。物心ついて以来自分乍ら世才に長ぜりと感じ、 幼友矢島君の男々しき武人姿を見るにつけ所詮身は軍人となれぬとは思ひ諦め居たるも、長じて茲に征途につくを得ば身を鴻毛の軽きにおき勇みて征かんの心激しからざるはなし。
過去二十何年かの間、陰に陽に愛しまれたる御両親の恩、甚だ深くして浅學非才なる小生にしては御礼の言葉も見当らず。その深遠広大なるに対し、深く深く厚く厚く御礼申し上ぐるものなり。御両親はもとより小生が大なる武勇を為すより身体を毀傷せずして無事帰還の誉を擔はんこと、朝な夕なに神佛に懇願すべくは之親子の情にして当然也。不肖自分としても亦、身を安んじ健康に留意し、目出度く帰還の後孝養を盡したきは念願なれども蓋し時局は総てを超越せる如く重大にして徒に一命を計らん事を望むを許されざる現状にあり。大君に対し奉り忠義の誠を至さんことこそ正にそれ孝なりと決し、すべて一身上の事を忘れ、後顧の憂なく干戈を執らんの覚悟なり。幸ひ弟妹多く兄としてのつとめを果たせざるを遺憾とは思ひつゝも願はくは之等弟妹に父母の孝養を依頼したき心切なり。死すること強ち忠義とは考へざるも自分は死を賭して征く。必ず死ぬの覚悟で征く。
萬事頼む。
眞二
十八年六月十日
箱根小涌谷にてしたゝむ
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学徒出陣70周年戦没学徒追悼会のご案内
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大東亜戦争がいよいよ苛烈を極めてきた昭和18年秋全国の青年学徒が祖国の危急を救わんとペンを捨てて剣をとり戦場へ赴きました。
その学徒出陣から満70周年を迎える今年、出陣学徒壮行会が行われた10月21日場所も神宮外苑競技場(現在の国立競技場)において戦没学徒追悼会を開催します。
どなたでも参加できますのでご案内いたします。
記
日時 平成25年10月21日(月)12:00~12:30
場所 「出陣学徒壮行の地」碑前
東京都新宿区霞ヶ丘町10-2
国立競技場マラソン・ゲート内
地下鉄・大江戸線「国立競技場」徒歩1分
JR「千駄ヶ谷」、「信濃町」徒歩5分
内容 黙祷、献花、追悼挨拶など
主催 海軍第14期飛行予備学生の会
早稲田大学出陣学徒の会
慶應義塾戦没者追悼会
その他各大学OB有志
連絡先 実行委員会代表
玉川博己 (弊会代表幹事)
E-mail tamagawa@mishima.xii.jp
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編集部から
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読者の皆様へ(編集部より)
9月27日(金)に配信した『三島由紀夫の総合研究』通巻第749号に掲載の山口洋一氏の講演要旨「腑抜けになったか、日本人」に誤植がありました。「▼西側の視点から歴史を裁断してきた過ち」のうち、黒人奴隷に触れた部分で、「彼らは物として扱われ、航海中に2割から2割が死んだと言われる。」とあるのは、「彼らは物として扱われ、航海中に2割から3割が死んだと言われる。」の誤りです。お詫びして訂正します。
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十月の公開講座の御案内 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◇◆◇◆
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三島由紀夫研究会、十月の公開講座は、ベストセラー『悪韓論』の著者、元時事通信ソウル支局長の室谷克実氏です。
『安重根と三島の差違』を仮題に熱弁をふるって頂きます。
記
とき 10月22日(火曜日) 午後六時半
ところ アルカディア市ヶ谷 7階会議室(白根)
http://www.jstc.jp/map/kenshu-mapARCADIA.html
講師 室谷克実
演題 「安重根と三島の精神の差違 韓国はなぜ駄目なのか」(仮題)
会費 お一人2000円(会員は千円)
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今年度の「憂国忌」のプログラムが決まりました。
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今年度の「憂国忌」のプログラムが決まりました。
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11月25日 午後六時開演(5時半開場予定)
星陵会館大ホール
司会 佐波優子
開会の辞 『三島由紀夫の憲法草案について』(富岡幸一郎)
シンポジウム 『憲法改正か自主憲法か』
井尻千男(評論家、拓殖大学名誉教授)
小川栄太郎(文藝評論家、『約束の日』の著者)
藤井厳喜(政治学者)
水島 聡(桜チャンネル代表=司会兼)
閉会の辞 松本徹(三島文学館館長)
会場分担金 おひとり 二千円(会員は千円。賛助会員は無料ご招待)。
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三島由紀夫研究会 yukokuki@mishima.xii.jp
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(C)三島由紀夫研究会 2013 ◎転送自由
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