

















日本の心を伝える会
メールマガジンNo.713
2013/10/5









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■□【1】背中の静ちゃん 大石清兵長(1/2)
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二つの手紙をご紹介します。
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【大野沢威徳からの手紙(万世基地にて)】
大石静恵ちやん、突然、見知らぬ者からの手紙でおどろかれたことと思います。
わたしは大石伍長どのの飛行機がかりの兵隊です。
伍長どのは今日、みごとに出げき(撃)されました。
そのとき、このお手紙をわたしにあづけて行かれました。
おとどけいたします。
伍長どのは、静恵ちやんの作った人形(特攻人形)を大へんだいじにしておられました。
いつも、その小さな人形を飛行服の背中に吊っておられました。
ほかの飛行兵の人は、みんなこし(腰)や落下さん(傘)のバクタイ(縛帯)の胸にぶらさげているのですが、伍長どのは、突入する時、人形が怖がると可哀そうと言って、おんぶでもするように背中に吊っておられました。
飛行機にのるため走って行かれる時など、その人形がゆらゆらとすがりつくようにゆれて、うしろからでも一目で、あれが伍長どのとすぐにわかりました。
伍長どのは、いつも静恵ちやんといつしよに居るつもりだつたのでしょう。
「同行二人」・・・仏さまのことばで、そう言います。
苦しいときも、さびしいときも、ひとりぽつちではない。
いつも仏さまがそばにいてはげましてくださる。
伍長どのの仏さまは、きつと静恵ちやんだったのでしょう。
けれど、今日からは伍長どのが静恵ちやんの「仏さま」になって、いつも見ていてくださることゝ思います。
伍長どのは勇かんに敵の空母に体当りされました。
静恵ちやんも、立派な兄さんに負けないよう、元気を出して勉強してください。
さようなら。
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【大石清伍長の遺書】
なつかしい静(しぃ)ちやん!
おわかれの時がきました。
兄ちやんはいよいよ出げきします。
この手紙がとどくころは、沖なは(縄)の海に散っています。
思いがけない父母の死で、幼ない静(しぃ)ちやんを一人のこしていくのは、とてもかなしいのですが、ゆるして下さい。
兄ちやんのかたみとして、静ちやんの名で預けていた郵便通帳とハンコ、これは静ちやんが女学校に上るときにつかって下さい。
時計と軍刀も送ります。
これも木下のおじさんたのんで、売つてお金にかえなさい。
兄ちやんのかたみなどより、これからの静ちやんの人生のはうが大じなのです。
もうプロペラがまわっています。
さあ、出げきです。
では兄ちやんは征きます。
泣くなよ静ちやん。
がんばれ!
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この二つの手紙は、神坂次郎(こうさかじろう)著「今日われ生きてあり(新潮文庫)」の中で、「背中の静ちゃん」として収録されている手紙です。
ブログ用に口語体に編集して掲載させていただきました。
原文はネットで読むことができます。
http://www.shinchosha.co.jp/books/html/120915.html
神坂次郎氏が、時代小説家であったこと、そして出撃した特攻隊員の中に「大石清」という名前がなかったことなどから、このお話が世に出た当時、このお話が「単なる創作だ」という論がかなり出回りました。
けれど、本文には妹の静恵さんが和歌山の木下という伯父のもとに引き取られたとあり、巻末には木下美代子(和歌山)という名前が取材先として書かれています。
おそらくこの方が大石兄妹の縁者であろうと考えられます。
また大石という姓にしても、遺族がなんらかの理由で実名を伏せるよう要望したとすれば、名簿から探し当てることはできません。
ただ私は、ここで紹介された手紙を誰が書いたのかということよりも、戦時中、大なり小なりこのような事例はあったであろうということ、そして特攻隊に限らず、戦地で立派に戦われた幾百万の日本の兵士たち全員に、たいせつな家族や友や恋人がいたということ、そのひとりひとりが、生きた人間であり、同じ日本人であったということの方が、よほど重要なことに思えます。
彼らは、その大切な人が未来の日本に生きれるよう、立派に戦い、散っていかれたのです。
そして戦時中、自分の死を前にした兵隊さんたちが、何よりも大切にしたことが、自分の命ではななく、家族や弟や妹や、恋人など、自分の大切な人の命だったということを、私たちは忘れてはならないと思うのです。
なぜなら、その大切な人こそ、他の誰でもない、いまを生きている私たち日本人だからです。
私が以前勤めていた会社にも、在日朝鮮人がいました。
日本名(通名)を名乗っているから、最初は朝鮮人とはわかりませんでした。
ただ、「妙に風を吹かせる」ということと、やたらに権威主義的な振る舞いが目立つという感じがあり、そして業務上の深い話になると、微妙なところで日本語が通じない。
普通に遊んでいる分には、いいのです。
同じ人間です。
ところが、ここ一番というときになると、日本語をしゃべっているのに、言葉の意味や、その心が通じない。
ですから、当時はとても不思議に思っていました。
あとでそれが朝鮮人だとわかり、おもわず納得しました。
日本人と、朝鮮人の大きな違い。
それが、相手に対する思いやりの心が持てるかどうかなのではないかという気がします。
そしてその思いやりの心が、あまりに美しく気高かったが故に、戦後の世界には、日本と戦争をするととんでもないことになる、という意識が芽生え、だから日本は先進諸国で唯一、戦後67年間の長期にわたって、戦争のない、平和を堅持し続けることができたのです。
言い換えれば、戦後の日本の平和は、この大石清兵長の手紙に象徴される思いやりの心をもった若者達が、立派に戦ってくださったおかげで、築かれたのだと言い切ることができようと思います。
昭和20(1945)年3月13日深夜から14日未明にかけて、グアムを出発した274機の米軍B29の大編隊が大阪の町を襲いました。世に言う「大阪大空襲」です。
約2千メートルの低空から、深夜の一般家屋をねらったこの空襲は、大阪の町に大火災をもたらしました。
そして、一般の民間人3,987名の死者と678名の行方不明者を出すと言う大惨事を招いたのです。
九州の任地で、この報に接した大石清伍長は、請願休暇をもらい、一昼夜をかけて大阪駅にたどりつきました。
大阪駅のプラットホームからみた大阪の街は、まるで焼けこげたトタン板を投げ出したような扁平になっていました。
見渡す限りの焼け野原です。
どこを見ても瓦礫の山でした。
その瓦礫の中に、男とも女とも区別がつかない黒こげの死体が、何百と散乱していました。
大石清伍長は、焼け落ちた電線や塀の倒れた上を踏み越え、松坂屋の残骸を目じるしに歩きだしたそうです。
心の中で、ずっと「生きていてくれよ、父ちゃん母ちゃん、静(しい)ちゃん」と叫び続けていました。
「静(しい)ちゃん」というのは、彼の妹の静恵さんのことです。
※明日のメルマガに続く





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