No.706 マイセン(1/2) 【日本の心を伝える会】 | My Flame

My Flame

ブログの説明を入力します。

My  Flame-STIL0039.jpg

My  Flame-20101020124459203.jpg

My  Flame-201010201245440e0.jpg

ラブレターラブレターラブレターラブレターラブレターラブレターラブレターラブレターラブレター
メモメモメモメモメモメモメモメモメモ

日本の心を伝える会
メールマガジンNo.706
 2013/9/18

メモメモメモメモメモメモメモメモメモ
ホームページ
http://www.nippon-kokoro.com/
ラブレターラブレターラブレターラブレターラブレターラブレターラブレターラブレターラブレター

【転送歓迎】


日本の心をつたえる会です。

ねずブロメルマガ(有料版)のお申し込みは↓から。
http://www.mag2.com/m/0001335031.html


桜桜桜桜桜

────────
■□【1】マイセンのスープ皿(1/2)
────────

マイセンのスープ皿
http://blog-imgs-43-origin.fc2.com/n/e/z/nezu621/20101020124459203.jpg


上の写真の絵皿は、1730年頃ドイツで作られたマイセンのスープ皿です。
ホンモノです。
国宝級の扱いを受けている逸品です。

マイセン磁器は、ごく最近の作品でも、絵皿付きのコーヒーカップ1個で30万円以上します。
女房と自分の分をセットでそろえたら、それだけで車が一台買えてしまう。

まして写真にあるような300年前の初期の頃の作品ともなると、もはや値段のつけようがなくなります。何千万とか億の世界です。
要するにマイセン磁器というのは、ヨーロッパ磁器の最高峰だ、ということです。

マイセンというのは、ドイツ東部のザクセン州のドレスデンの近くにあるエルベ河沿いの小さな城下町です。
そこにあるお城の名前が、アルブレヒト城で、むかしむかしこのお城にフリードリヒ・アウグスト2世(Friedrich August II.)という王様がいました。
王様は、錬金術師だったヨハン・フリードリッヒ・ベトガーに、磁器の開発を命じました。

アウグスト2世
http://blog-imgs-43-origin.fc2.com/n/e/z/nezu621/201010201245440e0.jpg


錬金術師のベトガーは、見事、磁器焼に成功しました。
それが日本で江戸時代中期にあたる、1709年のことです。

翌1710年には、「王立マイセン磁器製作所」がアルブレヒト城内に設立され、本格的なマイセン磁器の生産が始まっています。

アウグスト2世という王様は、神聖ローマ帝国ポーランド王を兼ねた強王で、ザクセン選帝侯とも呼ばれた覇者です。
そのアウグスト2世が生きた時代は、実は、東インド会社から運ばれた支那や日本の磁器が、王侯貴族の憧憬の的となった時代です。

東インド会社というのは、アジア地域との貿易の独占権を与えられた会社でした。
世界初の株式会社でもあります。
後にイギリスがこの東インド会社を支配するようになりますが、アウグスト2世の当時は、まだオランダが東インド会社の権利を独占していました。

東インド会社は、当初、支那の景徳鎮(けいとくちん)の磁器を買付けて、ヨーロッパ各地で販売していたのです。

「支那の景徳鎮磁器」という言い方は、適切でないかもしれません。
景徳鎮(けいとくちん)というのは、昌江の南にあるので、昔は漢字で昌南と書きました。
昌南は、英語だとChangnanです。
で、そのChangnanから、たくさんの時期がヨーロッパに渡り、Changnanの磁器が縮まって「China」となりました。
従って、Chinaという呼称は、欧州では陶磁器をあらわす単語であり、China=陶磁器=支那、という意味の単語になっています。

なぜ昌南の陶器が欧州で好まれたかというと、これにも理由があって、当時の欧州の城塞宮殿には、トイレがありません。
用をたすときは、男女とも部屋の隅に行き、そこに置いてある壷をまたいでその中に、出しました。
壷に溜まった汚物は、窓からジャーっとばかり捨てたので、下の道が汚物だらけになる。
そこで考案されたのが、石畳で、石と石の間に隙間をつくることで、汚物をその隙間から土中に沁み込ませたというわけです。

そんなわけで、中世の欧州では、大小の用をたすための大型の「壷」の需要が高かったわけで、その壷として、昌南の大型壷のニーズが高まったわけです。

初期の頃の昌南の壷は、ただおおきいだけで彩色性がなかったのですが、そこは宮殿に置くものです。
だんだんに彩色がされるようになり、綺麗な絵柄が描かれるようになっていき、そうなると異国情緒あふれる壷がますますもてはやされる、というふうに昌南の壷が発展していったわけです。

ところが支那のことです。
せっかくこうして確立された安定的なビジネスルートを、自らの手で壊してしまったのです。

どういうことかというと、正保元(1644)年に明が滅んでしまった。
清が起こったからですが、当然、世は戦乱のまっただ中となります。

支那は易姓革命の国で、清王朝が誕生すると、過去の一切は否定されますから、それまであった利権や販売ルート、果ては工場に至るまで徹底的に破壊され、技術者も「旧王朝の利権派」とみなされて、殺されてしまう。
要するに、まるで反日デモの暴徒のような混乱のなかで、磁器生産が困難になってしまったのです。

ところが、モノはトイレ壷です。
需要は大きい。というより、なくては困るものです。

そこで東インド会社は、支那の昌南以外で磁器を探しました。
そして日本に目を付けたのです。

「やきもの」というのは、素地の状態や焼成温度などによって陶器と磁器に分けられます。

「陶器」は「土もの」です。陶土を原料とする。
益子焼や薩摩焼、美濃焼などが、これにあたります。

日本における陶器の歴史は、めちゃくちゃ古いです。
そもそも縄文式土器といわれるものが、陶器そのもので、世界最古の土器は、日本の大平山元1遺跡で発見された1万6,500年前のものです。

ちなみに、陶器と土器の違いは、1000度以下で野焼きされるものが「土器」、1000度以上の高温で窯で焼くのが「陶器」と区別されています。
要するに、陶器の基になったのが土器、といったところです。

誤解があるといけませんので、すこし補足しておくと、秀吉の朝鮮出兵の際に朝鮮人陶器職人が日本に連れて来られ、薩摩焼や唐津焼のモトを築いたという人がいますが、これは違います。
薩摩も唐津も、遥か太古の昔から陶器を作っていて、室町から戦国時代には、きわめて装飾性の高い秀麗な陶器を数多く産しています。

ところが流行というのはおもしろいもので、華美なものが流行ると、その次には地味なものが流行ります。
信長の時代は、ある意味、日本が高度成長をした時代だったわけですが、そうした中で、侘び、サビなどの飾りを捨てた質素なものがもてはやされるようになりました。

要するに、世界中の様々な華麗な物品が日本にはいってきた中にあって、「俺たち武家なんだから、質実剛健でいなくちゃ」という気風が一方に生まれ、それが地味なもの、華美を排したものに対して価値を見いだす、という方向に嗜好が動いたわけです。

そうした時代背景の中で、朝鮮では、当時、いまだに土器が生産されています。
李氏朝鮮は貧困が支配した国であり、まさに「貧しい」から技術も育たず、貧しい陶器、つまり縄文式土器からさらに装飾性までをも取り払ったような、厚手の土器があちこちで生産されていたわけです。

しかもいちおうは「輸入品」です。
これが当時の武家社会にウケた。

つまり「品がある」というわけです。
「品(ひん)」というのは「貧(ひん)」です。
みるからに「貧しい品」が、「品があるしなもの」です。

たとえ生活が豊かになっても、貧しさを忘れず、粗食、粗衣、粗品で身を包む。
それが「つつしみ」です。

そういう文化的土壌の中で、当時、朝鮮の陶器が、まさに稀少な(朝鮮半島では一般的な品であっても、日本では輸入品ですから稀少品)品として、「貧を忘れないための貴重な品」となったわけです。
これは、まさに黄金の国ジパングの住民ならではの発想といえるものかもしれません。

そして秀吉の時代になって朝鮮出兵が行われると、朝鮮にいた陶器職人の中で、粗品であっても、端正な陶器を作る職人が、貴重な存在として、日本に連れて来られ、薩摩焼や唐津焼などの技術の一端に加えられ、貧の良い焼き物として、日本中でもてはやされるようになっていったわけです。

誤解を得やすいことなのですが、要するに当時、朝鮮半島における陶器文化が高度に発展していたから、日本がそれを学んだのではなく、当時、東南アジア諸国に日本人町をつくり、欧州にまで旅をし、鉄砲の保有数世界一、黄金の所持高世界一であった豊かな日本にいた日本の武人たちが、武家社会の武人としての質実の道を忘れないためにともてはやしたのが、まるで縄文時代の遺物のような朝鮮半島の貧しい陶器だった、ということです。
このあたり、たいへんに誤解を生んでいるようなので、補足させていただきます。

ただ、こうして「貧のある(品のある)」陶器がもてはやされるようになると、一方では、さらに技術を磨き、洗練された物品を作り出すのも日本の特徴です。

江戸時代の初期になって、佐賀県の有田町の周辺で、陶石を発見するのです。
で、有田に「磁器」窯が開かれて、日本初(世界初)の磁器が作られました。

よく、陶磁器といいますが、陶器と磁器は、原料が違います。
陶器が土を原料とするのに対し、「磁器」は「石もの」で陶石を原料とします。
なにせ石ですから、陶器よりも高温で焼かなければなりません。
そのため磁器は、陶器よりもかなり硬くなり、素地は透き通った真っ白になります。

素地が真っ白だということは、彩色性がきわめてよくなるということです。
つまり、磁器に絵を描いて焼くことで、きわめて芸術性の高い磁器ができあがる。

支那では、明代になって、土で焼く「陶器」に、色や絵を付けたものが大流行します。
「なるほど、これはいい」と、支那の色絵の技術を聞いた佐賀の酒井田柿右衛門が、工夫を重ねて、石焼で、素地の真っ白な磁器に色を付けて焼く技術を開発します。

江戸時代の後期に、全国各地で「磁器」の生産が始まるまでは、有田が日本国内で唯一「磁器」を生産するところでしたが、積み出しが伊万里(いまり)港からされたので、「伊万里焼き」とも呼ばれています。

作品には、製造時期や様式などによって、初期伊万里、古九谷様式、柿右衛門様式、金襴手(きんらんで)などがあります。
さらに、献上用の極上品のみを焼いたものが、鍋島藩の藩窯のものが「鍋島様式」、天皇に納めたものが「禁裏様式」です。


※明日のメルマガに続く




チューリップ赤チューリップ赤チューリップ赤チューリップ赤チューリップ赤


=========
【2】携帯で接続の皆様へ
=========

日心会ML等に携帯からお申込みや閲覧をご希望の方へのご連絡です。

せっかくお申込みをいただき、当会からお返事をさしあげても、携帯の≪迷惑メールフィルタ≫によって当会からのメルマガやメーリングリストが届かない、というケースが頻発しています。

お手数ですが、日心会入会申込の際、次の2つのドメインの受信が可能になるように、あらかじめご自身で携帯への設定をお願いします。

【ドメイン】
@nippon-kokoro.com
@freeml.com


ヒヨコヒヨコヒヨコヒヨコヒヨコ


回回回回回回回回回
<編集 配信>
日本の心を伝える会
<代表者ブログ>
ねずさんの ひとりごと
http://nezu621.blog7.fc2.com/
回回回回回回回回回
※配信停止依頼はコチラ
 ↓ ↓ ↓
assist@nippon-kokoro.com
(必ず件名に「配信停止依頼」と書いてください)名に「配信停止依頼」と書いてください)