ここは、骨寺村荘園交流館。

近くに骨寺村荘園休憩所というのもあって、気になる名前、

骨寺村・ほねでらむら。

かつて骨寺村と呼ばれた荘園

時は12世紀。

平安浄土の国づくりを理想にかかげた藤原清衡は、自らの発願による紺紙金銀字交書一切経(国宝)の完成に功のあった自在房蓮光を、そのお経を納める中尊寺経蔵の初代の別当に任命。

そこで蓮光は私領であった骨寺村を経蔵に寄進し、経蔵の維持のための費用をまかなう土地(荘園)として、あらためてそれを清衡から認められた。

これが中尊寺経蔵別当領骨寺村のはじまり。

2枚の絵図のうち、簡略絵図(仏神絵図)。

骨寺村は経蔵別当領となり、藤原氏滅亡後は、この地方の地頭となった葛西氏などと相論を繰り返しながら、鎌倉時代を経て、15世紀の室町時代まで伝領されていく。

2枚の陸奥国骨寺村絵図は、その過程で作成されたものと思われる。

江戸時代になると、本寺地区は仙台藩の直轄領となり、明治維新まで経営。

骨寺が本寺に転訛したのは、この時期といわれている。

2枚の絵図のうち、詳細絵図(在家絵図)。

簡略絵図は鎌倉時代中期、

詳細絵図は鎌倉時代後期に描かれたものとされている。

これらの絵図は骨寺村の領主であった中尊寺経蔵別当職を継承した大長寿院に伝来したものであり、中世の村落景観を窺うことができる貴重な資料として、平成七年(1995年)に重要文化財に指定された。

2枚の絵図とも、栗駒山(須川岳)を正面に、骨寺村の四方の境、すなわち東は鎰懸、西は山王窟、南は岩井河(磐井川)、北はミタケ堂馬坂に囲まれた領域を描いている。

このうち詳細絵図には、平野部に在家や田の図像が描かれ、とくに本寺川の両岸には上流から下流まで田が点在する景観が読み取れる。

他方、簡略絵図には、図像こそ描かれていないものの、田や畠の文字が記されている。

 

 

 

このあとは、達谷窟毘沙門堂へ。

延暦20年征夷大将軍 坂上田村麻呂公創建

達谷窟毘沙門堂

奥の青いブルーシートは、現在、修復中の不動堂。

 

寺務所で入場料を支払い中へ。

 

 

達谷西光寺、毘沙門堂の催事を行う別当寺院。

壱之鳥居、扁額は、辯財の文字

弐之鳥居

扁額は、達谷霊窟

 

参之鳥居

扁額は、霊?

下の文字はわかりません。

辯天堂

参之鳥居をくぐると右手の毘沙門堂に目がいくが、

正面のアヤメ?が咲いてる蝦蟇ケ池、赤い橋の先に辨天堂。

立札がある。

自是辨天堂 仲良き男女は別々にお参りください。

弁天様が嫉妬するから?

 

毘沙門堂は、坂上田村麻呂公が戦勝の御礼に京の清水の舞台を模して九間四面の精舎を建て

108体の毘沙門天を祀り、鎮護国家の祈願所とし、窟毘沙門堂・別名を窟堂と名付けた。

大きな岩山の切り立った崖に食い込むように建つお堂は迫力ある。

毎月1日は、毘沙門護摩供

堂内から、お経が聞こえてる。

厳かな堂内に入ってみます。

もちろん撮禁。

しばし、続くお経に頭を垂れ手を合わせ。

お堂をおりて、達谷窟毘沙門堂の左隣の岩壁

大日如来あるいは阿弥陀如来といわれる

岩面大佛・大磨崖仏。

高さ約16.5mに掘られた、上下約3.6m、肩幅約9.9mもの大きさ。

前九年 後三年の役で亡くなった敵味方の霊を供養するために、源義家公が彫りつけたと伝えられている。

柔らかな顔立ち、大きな耳たぶ、

明治29年の地震で胸から下が崩壊、現在もなお風化が続いてる。

 

文保の古碑

梵字キリクが刻まれている

 

奉行坊杉

左手の道を進む

 

鐘楼

土足厳禁、入堂禁止

大オッコウ

オッコウは、イチイの木のこと。

演技の良い木らしい。

金堂

薬師如来が祀られている。

 

ブルーシートで覆われてる 姫待不動堂修理解体は、H4年9月から始まった大規模解体修理。

茅葺きではなく銅鈑の屋根に。