いたるところに時計がある。妻といるよりも時計と暮らしている時間のほうが長いと言っていいほどだ。時計で測ったんだから間違いない。ビデオデッキ、炊飯釜、テレビ、電子レンジ、洗濯機、携帯電話、腹時計、砂時計など、生活空間のありとあらゆるところで私たちは時計と共存している。竹馬の友は時計と言っていい。無二の親友は時計と言っても過言ではないほど密着している。もはや時計なくしては生きていく気力さえ失いかけ、家に帰る時間までも忘れてしまいそうになってしまうほどだ(家の所在地を忘れたいのに忘れないのが不思議だ)。
 こんなにも時に刻まれて、紙ふぶきのようになりそうなくらいに時計と合いまみれているのにもかかわらず、なぜ時間にルーズな人ばかり多いのだろう。携帯電話に組み込まれる新型の原子時計がクオーツ時計の1000倍の精度だということだが、そんなことよりも、いつもより1000倍正確に会社に出勤してこれないものかと思う。精度の良い時計や、ありとあらゆる場所で時計と接しているのに、何故15分という休憩時間を3分43秒もオーバーしてしまうのか納得が出来ない。時計に正確さを求めるよりも、人間に正確さを求めたほうが良いのではないのかとつくづく思うのである。
 私には時計など必要ない。プロボクサーがラウンドの3分間を時計無しでも正確に測れるのと同じく、私にも正確な体内時計が備わっているので、イチイチ時間など気にせずに日常の生活を営むことが出来る。どんなに仕事に集中し没頭していても、眠くなってくれば居眠りの準備をすることができる(時たま、ボールペンを持ったまま寝ていることを除いて)。仕事が終われば片道30分の道のりを1時間30分かけて帰宅することが出来る(帰宅できなかったということがなくて残念だ)。会議の冒頭での社長の10分間の挨拶の時に、キッカリ10分間居眠りすることが出来る。などだ。
 このように、日頃の感性を研ぎ澄ませていれば時計など必要ないのである。だいたい家の中にある時計は、どれをとっても違う時間を刻んでいるではないか。炊飯がまの時計が12:05だと思えば、テレビの時計は12:12だったり、洗濯機の時計が11:18だと思えば、腹時計は12:00なので昼食をとってみたり、21:00に予約したドラマが30分後に録画されたり(特に野球の延長のときなど)、時間を司るべき時計自体が、それぞれ自分勝手な行動に終始し人間を翻弄している。このように家にある時計が示す時間は全て一致していないのが現実なのだ。かといって、家族全員そろって一斉に持ち場につき、それぞれの時計が同時刻になるようにセットしたりすることなどないのである。
 時計になど過度に依存してはいけない。彼らは虎視眈々と人類侵略を目論んでいるのに違いないのだ。人間は時計に知らず知らずのうちに侵食されていることに気づくべきである。自分の上司が時計だったらどうする。結婚式の時の神父が時計だったら、15kmオーバーの違反キップをきる時計がいたらどうする。行列の出来るラーメン店の店主が時計だったらどうする。時計に頼りすぎては思う壺だ。時計の侵略をなんとか阻止しなければいけない時期に来ているのだ。 
 この文を読んで笑っている人がいると思うと残念でならない。時計に操られる人間であってはいけないのだ。どうか私の心配が現実にならないことを祈っている。

 さて、おいしい焼きそば弁当を食べなくてはいけないので、3分間計ることにしよう。
私は家事手伝いに真剣に取り組んでいるほうだと思う。というか家事手伝いが好きで仕様が無いと思っている。できれば仕事として収入を得たいとさえ思っている。洗濯などは独身中には好んでやっていた。あまりにも洗濯好きなので、わざわざ洗濯するために服を着ていたりしたものだ。たとえばTシャツを日に三回取替え、パンツはトイレに行くたびに取替え、それでも足りずに、靴下などがあまり汚れないときは、靴下のままで隣のセブンに日刊スポーツを買いに行っていた。そんな無意味な努力の甲斐があって毎日洗濯できることに喜びを感じ、いつか洗濯機を買おうと夢見ていたものだ。
 掃除ももちろん好きだ。毎日掃除するお陰で部屋の中に空きドラム缶や、廃車にした車、倒壊したビルの残骸などのゴミがひとつも転がっていることは無かった。しかし、毎日掃除をしたい欲求を抑えることが出来ず、鼻をかんだティッシュはそのまま床に落とし、読みかけの本はどこまで読んだか判らない状態で放置し、電話帳などは1ページづつ破って切り捨てた。たまに食べたりもしていた。そのような爪に火をともすような甲斐があって、毎日心行くまで掃除を楽しむことが出来た。掃除をするときには必ず「ワルキューレの騎行」(映画、地獄の黙示録でおなじみ)をBGMにしながら、ほふく前進やカニ歩きなどをしながら掃除を堪能するのである。
 そして忘れてはいけないのは「料理」だ。私は次に生まれ変わるとしたら「レバニラ定食」になりたいほど料理がすきなのである。前菜から始まりメインそしてデザートとコースを組みながら、ヘアピンコースのコーナリングを考えるような繊細な神経を張り巡らせながら料理を作るのだ。そして出来上がったものは美味しいかどうかなどは関係なく、妻や息子に振舞うのである。だから、自分が作った料理を未だかつて食べたことが無い。食べることになどに意味はないのだ。私は料理を作り、そして振る舞い、不味かったから二度と食べないという家族の非難を体一杯で受け止めることに快感を覚えるのである。味を確かめながら料理を作るなどという送りバントのような作り方は私の意志に反しているといっていい。私は常に犠牲フライのような気持ちで料理を作っているのだ。

 それくらい家事手伝いが大好きな私は、きっと重宝な夫ということでみんなに羨ましがられることだろう。


尚、食器を片付けることに快感を覚えるには時間がかかりそうだ。


世界の人々は、さまざまな「サービス」に肩までドップリ使っている。道を歩いていたらサービスにつまづいて転び足を折った後、介護サービスを受けるほどサービスが溢れている。マクドナルドは斬新なサービスを始めたようだ。時間を短縮し、ミスを減少させ、お客様を待たせることなく、その食欲を満たそうという試みである。
 私はドライブスルーが嫌いだ。まず、自分の食べたい商品をマイクに向かって話すと言うことが生理的にいやである。たとえば、私の好きな「天城超え」や「勝手にシンドバット」などをマイクに向かって歌うのはいい。日頃のストレスや、プロ級の歌唱力を披露するという目的、そして、決してマイクを離さないという目的において、マイクは必要不可欠なアイテムである。しかし、たかがハンバガーセットとポテトとアイスとナゲットとサラダとおもちゃと中華丼とレバニラ定食を頼むくらいのことで、なぜわざわざマイクに話しかけなければいけないのか納得できない。マイクという無機質でアバンギャルドな器具を使うということは、お客様を見下したような接客に等しい。そのような接客を受けることで私は憤りさえ覚えるのである。
 お客様が身銭を使い商品を買うのであるから、商い人として自らが外へ出て頭を下げて感謝の意を表明するのが道理というものではなかろうか。きっとマイクの向こう側では耳掻きで耳を掃除して大あくびをしながら注文を受けているに違いないのだ。そういうことをしていたら徒歩でドライブスルーするぞっ!逆立ちでもいいぞっ!と言いたい。それが無理なのであれば、マイクに「注文君」とか「復唱君」などのニックネームをつけて、バッティングセンターのハリボテでギミック的な動きをするピッチャーの人形のようなものを置いてお辞儀させるような心意気と根性が無くてどうする。創意工夫を怠れば堕落が始まる。一見便利なように見えるものには誠意が薄いように思うのだ。
 それに、買い求めて車を発進させ袋から出して包装を破って注文したものと違うものが入っていたと判明したときには、もうすでに店からの距離は一泊二日でヒッチハイクして行かなければならないほどの距離まで離れてしまうため、本当はマックフライポテトを食べたかったのに、ケンタッキーフライドチキンのコンボバレルを渋々食べなければいけないという結果になる。このように、わざわざ文句を言いに行く気力をも奪い去るのである。
 時間の短縮とコストの軽減が「サービス」というものの生命線だ。しかし、必ずしもそれに成功したからといって、顧客満足にストレートにつながっていくといえばそうではないように思う。頼んでから3秒で出来上がりですと言われても「あんた、いつから作ってたの?」と言いたくなるし、頼んでから30分もかかれば「あんた、いつから作ってたの?」と不審に思うものだ。人間の心理というものは千差万別、これでよしと思ったことが、その逆の結果を導き出すこともあるのである。
 「サービス」と「無料」は気っても切れない間柄だ。この二つをつなぎとめ、消費者のニーズに答えるなどと言う事は、バンジージャンプをしながら刺繍をするようなものだ。様々な想像を絶する困難が待ち受けていることだろう。しかし、新しいものへの挑戦を怠らないマクドナルドを応援したいのも、また事実である。いい結果が出るように頑張って欲しいものだ。

 区役所や、社会保険事務所や税務署なども、私に督促状ばかり送りつけていないで、全国ドライブスルー化と時間短縮を実現して欲しいものだ。じゃないと、こちらから督促状を出すぞ。