<終戦八十年に寄せて>

(神社新報 令和6年4月22日号に寄稿しました)

来年令和七年は、大東亜戦争終戦八十年の記念すべき年です。この八十年間、日本は戦火に見舞はれることなく平和な時代を享受することができました。これは靖國神社、全国の護国神社に祀られる御祭神(英霊)の礎の上に築かれたものであることは言ふまでもありません。

英霊が生きた近代日本、即ち明治大正昭和前期の時代は、歴史教科書の数ページで語れるほど生やさしいものではなく、実に波乱万丈の七十七年間でした。その間に起こつた戦争は、今日よく言はれるやうな、侵略目的のものではなく、日本にとつては当時の国際法秩序に則り、弱肉強食・白人至上主義の国際社会の中で国家の存亡を懸け戦つた、やむにやまれぬ戦ひだつたと言へるでせう。

その歴史を伝へる場として、後世の私たちの平和を願ひつつ、先人が残してくださつたのが、全国各地にある護国神社なのです。
  
さて、護国神社をとりまく歴史を簡単に振り返ると、大きく四つの時期に分けることができます。その始まりは明治時代の初期、幕末のさまざまな戦ひや戊辰戦争で亡くなつた各藩の藩士の神霊を祀るために、明治天皇の御心により全国各地に「官祭招魂社」が創建されました。これが護国神社の起源となります。

二つめは、明治時代中期以降、地元との繋がりが強かつた陸軍の師団や歩兵連隊が、その地域に陸軍部隊の戦歿者の神霊を祀るために「私祭招魂社」を創建した時期。

三つめが、転機となつた昭和十四年から戦争終結まで。この時期に、それまで官祭招魂社、私祭招魂社、靖國神社にお祀りされてゐた英霊を、出身道府県別に合祀する形で原則各県に一社の、護国神社が設置されました。これは当時の中央官庁の内務省の主導でおこなはれたものですが、創建のためのさまざまな資金などは各道府県民の寄附と勤労奉仕により賄はれました。まさに地元の方々による手作りの神社だつたのです。

そして、四つめが戦後の八十年間です。苦しい戦争体験の反動や国民の大多数が衣食住もままならず生きるのも困難な状況だつたこともあり、戦後しばらくは護国神社の参拝者自体が激減する時期が続きます。そんな危機的状況の中で護国神社を支へたのが、元陸海軍人の集まりであつた各戦友会や各都道府県遺族会の皆様でした。また、護国神社自身も独自の工夫や努力により、その維持に努められました。

数々の取組みには今日に繋がつてゐるものも多く、夏に数日斎行される「みたま祭」もその一つです。また、戦歿者の写真や遺品等を展示する施設も、それぞれ名称は異なりますが茨城県、宮城県、栃木県、静岡県、飛騨、福井県、富山県、滋賀県、岡山県、徳島県、香川県、大分県、宮崎県などの護国神社に開設されてをり、英霊の生前の遺徳を伝へてゐます。
  
現在、全国の護国神社は一様に大きな課題に直面してゐます。風化する英霊の記憶、郷土の歴史、近代史軽視の日本人の歴史認識、そして何より、戦後の護国神社を支へてきた方々が高齢になり、次代への継承もなかなか進んでゐないこと。このやうな向かひ風の中で、神社の護持、英霊崇敬奉賛活動等、未来に向けての御努力が続けられてゐます。私は微力ながら、このやうな護国神社の御努力を応援し、今後も護国神社の御祭神に日本の平和と安寧を祈願してまゐりたいと思つてをります。


護国神社研究家 山中浩市