群馬縣護國神社の歴史を、本日発売の神社新報(令和6年1月29日号)に執筆しました。 ご一読ください。

有名な「八甲田山遭難事件」と群馬縣護國神社の意外な関係。

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「福島少佐と群馬縣護國神社」 北は赤城、榛名、妙義の上毛三山、南は群馬県南部の平野が一望できる高崎市民憩いの場「観音山展望台」。

群馬縣護國神社はそのすぐ北側に鎮座しています。

安政五年、江戸幕府が鎖国政策をやめ外国との通商を始めた時、唯一の輸出産品は生糸(きいと)で、その国内最大生産地が群馬県南部でした。 有名なわが国初の製糸工場「富岡製糸場」もここにつくられました。そしてその中心都市であった高崎と首都の輸出港を結ぶ鉄道(現・JR高崎線)は、東海道本線よりも早い明治十七年に開通。同年には陸軍歩兵第十五連隊(以下、高崎連隊)が編成されており、高崎が当時の日本の富国強兵、殖産興業政策の象徴的な場所であったことが窺えます。
高崎連隊には群馬県下だけでなく長野・埼玉もあわせた三県の出身の若者が入営。連隊は、日清・日露などの戦役だけでなく、昭和十年九月台風による群馬県の歴史的大水害では災害派遣でも活躍されます。この時の水害は市内を流れる烏川(からすがわ)が氾濫し被害も甚大で、救護活動中に高崎連隊の兵士七人が殉職されました。この七人の慰霊碑は、護國神社近くの市立小学校のすぐ南に現存しています。
さて群馬県の英霊祭祀は当初、高崎連隊内(現高崎公園)に英霊殿を設置し、群馬県出身者だけでなく連隊戦歿者の神霊の慰霊祭を毎年おこなっていました。その後、昭和十四年に「内務大臣指定護国神社制度」が誕生し、連隊の東に群馬縣護國神社が創建されます。この時に、高崎連隊の戦歿者だけでなく、他の陸軍部隊、海軍の群馬県出身戦歿者の英霊祭祀をおこなうことになったのでした。 この中には、福島泰蔵少佐(群馬県伊勢崎市出身)も含まれていました。 明治三十五年一月、青森県の八甲田山で世界最大の山岳遭難事件が発生します。「八甲田山雪中行軍遭難事件」です。陸軍青森歩兵第五連隊の百九十九人の将兵が亡くなりました。この時、偶然にも、同じ日に異なる登山ルートで八甲田山へ雪中行軍訓練を一人の犠牲者も出さず踏破した登山隊がありました。それが、弘前第三十一連隊の福島少佐が率いる登山隊でした。この踏破は決して幸運によるものではなかったのです。 

福島少佐は、明治三十一年の弘前連隊への赴任以来、何度も雪中露営演習をおこない十分な訓練を実施、さらに土地をよく知る地元の案内人をたてた上で用意周到で雪中行軍に臨んだのでした。

そしてこの時、福島少佐が得た経験・技術は、その後の日本の雪山防寒装備・寒冷地登山技術の向上に生かされていったのです。

福島少佐は、その後、山形歩兵第三十二連隊に異動し、日露戦争に参戦しました。日本軍は圧倒的な戦力差のロシア軍を前に苦戦しますが、遼東半島の付け根「黒溝台」での戦いで武運に恵まれ逆転勝利し、そのままなだれ込むように奉天を攻略。日本は、戦争に勝利します。

福島少佐はこの「黒溝台の戦い」で戦死されましたが、その神霊(みたま)は地元群馬の地に帰り、護國神社から故郷の山河と群馬県の人々を今も見守っておられます。