航空母艦「千歳」慰霊碑(水天宮 福岡県久留米市)





●碑文
いつよりの千歳かわかぬ千歳川 始もはても なき名なりけり

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昭和十三年就役以来 日支事変、太平洋戦争と幾多の戦闘海戦に出撃 赫々たる戦果を挙げた軍艦千歳は、フィリピン沖海戦に於て勇戦奮闘するも衆寡敵せず 遂にフィリピンエンガノ岬東方に艦長以下数百の将兵と共にその勇姿を没した

時に昭和十九年十月二十五日午前九時三十七分

軍艦千歳は筑後川(別名千歳川)の名を取って命名されたものであり 艦内神社に水天宮を奉祀してありました






 

●航空母艦千歳レリーフ像について

敗戦の色濃い、戦局を一挙に挽回せんと捷1号作戦が発令され、栗田、西村、志摩の三艦隊のレイテ湾、突入を容易にするため、陽動作戦部隊となって昭和十九年十月二十日午後、小沢治三郎中将指揮のもと僚艦17隻と共に、豊後水道を出撃、十月二十五日、早朝よりアメリカ機動艦隊、艦載機の集中攻撃を受け、岸良幸艦長以下、乗組員一丸となっての奮戦も空しく、二十五日午前九時三十七分フィリッピンルソン島東方二〇〇浬の太平洋上から歴戦の栄光に輝いた、航空母艦千歳は永久にその姿を没してしまいました。

年々、歳々、時は移り、世情も変わり、千歳沈没から、四十六年経過いたしました。 幸か不幸か、辛うじて生き残った生存者も一人減り、二人減り、千歳の面影も年と共に次第に薄れてまいりました。

まして千歳の勇姿を見た事もない遺族の方や、参拝者に対し、更に、八千五百メートルの深い海底に眠る艦長以下、千名近くの先輩戦友の鎮魂供養に、レリーフ像の建立の話が生存者の間で起こり、全国各地に居住する乗組生存者の浄財により、千歳の勇姿を再現する事が出来ました。

平成二年十月



●軍艦千歳郷土会に就いて

軍艦千歳が呉海軍工廠で竣工、就役間もない昭和十三年十月久留米を中心とした筑後地方一帯より、一千九百余名の有志の方々で軍艦千歳会を発足させ(会長 石橋徳次郎氏 当時久留米市長)その頃珍しかった蓄音機、レコード、絵葉書及び軍艦旗など多数献納されております。

この度の千歳慰霊碑建設に当っては生存者及び遺族の方々は申す迄もなく、軍艦千歳の事を全く知らない多くの方から、又筑後川遥か上流の方々からも暖い御協力を賜り見事な慰霊碑が出来ました。

軍艦千歳は六ヶ年の短い生涯でありましたが、他の艦に見られない一般の方々の祝福を受けた幸せの艦であったと思います。

艦長、副長機関長など幹部の方々は殆んど戦死いたしました。もし艦長存命ならば皆様に対し、どんなに御礼の言葉を述べた事でありましょう。

昭和五十三年十月二十五日 軍艦千歳慰霊碑建設委員会


三百年前は筑後川を千歳川と呼んでいたそうであります。
いつよりの千歳かわかぬ千歳川 始もはても なき名なりけり