現代(いま)に生きる日本舞踊の世界
 ~なごやに<創作と古典>の息吹を~

その2続きます。


【その2、名古屋の日舞界】
では名古屋の日本舞踊業界のことを少しお話ししたいと思います。

「名古屋日本舞踊協会」というのが、戦後間もなく立ちあげられまして今に続いております。
赤堀・稲垣・内田・工藤・五條・立花・西川・花柳・藤間の9の流派の代表が幹事を務めています。
幹事は古くからこの舞踊協会の会員だった流派で会員数も多い流派です。あいうえお順に、2流派づつ順番に代表幹事を務めることになっています。

東京には「日本舞踊協会」というのがありましてこちらは全国版で、会員数も公演の規模も、私達名古屋とは比べ物にならない、実に大きな団体です。ですが東京の舞踊協会より、名古屋の私達の方が古くて、という誇りもありますので、小さいながら、長年手を取り合って頑張って参りましたので…名古屋だけで独立してやっております

名古屋界隈の発表会は日本全国同様、ご多聞にもれず、開催数が減って規模も小さくなっております。
古典芸能への興味が薄らいだこととか、芸者さん方の見番が少なくなったこと、長く世の中が不景気だったこと色々な事から数が減ったのかと思います。
大きな会では錦秋の名古屋を飾っていた、名古屋市主催の『金城おどり』も不景気から残念なことにもう無くなりました。戦後御園座で始まって以来、中日劇場にと繋がって今も初秋を飾っている『名古屋おどり』は西川流さんと中日新聞さんで頑張って続けていただいています。
現状はこんなところでしょうか。


 
平成9年第40回金城踊り9流合同作品より



ところで歴史の紐を解くと、我が名古屋の文化が盛んだった様子が伺えます。
皆様はほかの講座で既にお聞きになっていると思いますが
歌舞伎の祖は出雲の阿国とされています。その阿国劇団の作者であり演出家、時には阿国の相手役でもあったのが、名古屋山三で(山三郎)、彼は名古屋生まれの美男子!!なのです。
もともと名古屋氏は那古野地方の地侍で、父は名古屋因幡守敦順(いなばのかみあつより)、母は後の養雲院殿、織田信長の姪にあたるといいます。名古屋城内、三の丸西南の一郭に山三屋敷跡がありますと、古い本に記されております。

でも、今の名古屋城の中には三の丸は無いのですね。中日新聞とかその西向かいあたりらしいです。探してみたのですが、見当たらなくて…ともあれ、名古屋山三のお陰で我が名古屋は歌舞伎発祥の大立役者の一人なのです!
(この講座の後日、他所から山三屋敷跡の地図頂きました)
思えば名古屋城築城当時、慶長15年のころから臨時の小屋で芝居興行がありました。二代光友公の時、七代宗春公の時と次第に繁栄し、宗春公の時、土地の役者のみでなく東西の名優をむかえるようになりまして、橘町裏(今の中区上前津交差点あたり)が東西名優のおためし場となったとかと、聞いています。
又、名古屋は町衆が結構裕福で芝居見物は勿論、稽古事も盛んで、「芸どころ名古屋」という言葉は此のふたつのような理由からではと、思われます。


(次の投稿に続きます)