近頃、なにかとカタカナ言葉がトレンドになっていることがあるようで
つい先日も

↑これはネットで検索したら出できた
ことで、私達の世代には
ごく当たり前の『書くこと』を表しているようです。
私達が学生時代は(私の中高生時代は70年代~80年代に入る頃)パソコンもなければ
携帯もない時代でしたから、色々とアナログでのコミュニケーションが主流だったのもあり、
日記をつける
手紙のやりとり
交換日記
等、自分の心の内を書くことは

雑誌には必ず、文通のお相手募集の欄があったり、ラジオのリクエストもハガキだったりと、本当に今から思うとなんだか

こんな時代を今の世代が知ったら
何それーと???思うでしょうね!
書くことは、本当に自分の心
いわゆる『思い』に向き合っていくことに
繋がります。
文字にし始めると、
『あー、自分はこう思っているんだなあ』
私達の生徒さん達には、
ある段階において、自己表現する課題を
出して行きます。
もちろんアナログではなく、SNSを使う
SNSに顔出しできない
プライベートなことは書けない
書いたことを家族に見られたくない
人からどう見られるかが気になる
よい事を書かないといけない
書く以上は役にたたないと意味がない
等々、、
こういったことが、自分の中にある
これは全てが
制限、思い込み、自意識過剰、すり替え
自己否定、完璧主義、罪悪感…等々
外側に基準をおいて、自分自身をジャッジしていることになります。
そんな基準で、自分と向き合うことから
避けていたり、やらない選択をしているのは
もったいないなぁーといつも感じます。
外側からくる出来事や、目の前にいる人が
もたらす色々な事柄で私達は様々なことを
感じます。
いわゆる喜怒哀楽
喜んだり、怒ったり、哀しんだり、楽しかったり、
感じたことを感じたままに書くといっても
なかなか書けないことがあります。
誰にも見せない日記なら、思うままに
言葉も選ばすに綴れますが、
SNSはそうはいきません。
だから益々、億劫になるし
怖くなってしまう、、
私は自己表現の際に、起承転結
感謝で結ぶことが大切だと伝えています。
出来事やそれに関わる人にたいして
特にネガティブな内容は、得てして愚痴になったり、文句、言えない心の声、等々
それを書いてスッキリしたいと言うだけでは
ただ、現実の見える世界、表層的なことだけになるし、人の事を書くのではありません!
特にネガティブな怒り、哀しみは
そう感じた『私』がいることに意識をして
いくことが大事です。
そう感じる、、原因の種が必ず自分の内側にあるからです。
自分と向き合うことは、その種を見つけて
だからこそ、ネガティブな思いを感じさせてくれる出来事や、人がいてくれることは、ありがたいことなんです(鏡の法則)
私達の学びではそこを課題にしています。
綴ったことが、家族や近しい人の絡むことでも、そのことで自分自身が自分を囚われの中にいることを気づかせてくれたなら、
感謝できるし、面と向かっては表現できない
心の動きを理解してもらえるかもしれません。
だからこそ、どんな内容も
『ありがとう』の言葉でしめくくれるのだと思うのです。
全ては『私』
他者は変えることはできませんし、自由意志がある限り、他者をコントロールはできないのです。これは宇宙の法則だからです。
書くことをこんな風に考えたなら
見られたくない!もなくなっていくのではないでしょうか。

つい先日も
『ジャーナリング』
と言う言葉を聞くことがありました。

↑これはネットで検索したら出できた
ことで、私達の世代には
ごく当たり前の『書くこと』を表しているようです。
私達が学生時代は(私の中高生時代は70年代~80年代に入る頃)パソコンもなければ
携帯もない時代でしたから、色々とアナログでのコミュニケーションが主流だったのもあり、
日記をつける
手紙のやりとり
交換日記
等、自分の心の内を書くことは
ごく日常の中にあることでした。

不思議な感じにすらなります。

画像はネットから!ありがとうございました
こんな時代を今の世代が知ったら
何それーと???思うでしょうね!
書くことは、本当に自分の心
いわゆる『思い』に向き合っていくことに
繋がります。
文字にし始めると、
『あー、自分はこう思っているんだなあ』
とつくづく感じたりするものです。
私達の生徒さん達には、
ある段階において、自己表現する課題を
出して行きます。
もちろんアナログではなく、SNSを使う
自己表現です。
(アナログで書くことも🆗強制は一切しません)
仲間と共有することで、学びがあるからです。
すると、抵抗となる色々なことが現れます。
SNSに顔出しできない
プライベートなことは書けない
書いたことを家族に見られたくない
人からどう見られるかが気になる
よい事を書かないといけない
書く以上は役にたたないと意味がない
等々、、
こういったことが、自分の中にある
これは全てが
制限、思い込み、自意識過剰、すり替え
自己否定、完璧主義、罪悪感…等々
外側に基準をおいて、自分自身をジャッジしていることになります。
そんな基準で、自分と向き合うことから
避けていたり、やらない選択をしているのは
もったいないなぁーといつも感じます。
外側からくる出来事や、目の前にいる人が
もたらす色々な事柄で私達は様々なことを
感じます。
いわゆる喜怒哀楽
喜んだり、怒ったり、哀しんだり、楽しかったり、
感じたことを感じたままに書くといっても
なかなか書けないことがあります。
誰にも見せない日記なら、思うままに
言葉も選ばすに綴れますが、
SNSはそうはいきません。
ネットでは気遣い、気配りが必要ですから。
SNSでの誹謗中傷等はもっての他!
意識の低さを現しています。
だから益々、億劫になるし
怖くなってしまう、、
私は自己表現の際に、起承転結
感謝で結ぶことが大切だと伝えています。
出来事やそれに関わる人にたいして
特にネガティブな内容は、得てして愚痴になったり、文句、言えない心の声、等々
それを書いてスッキリしたいと言うだけでは
ただ、現実の見える世界、表層的なことだけになるし、人の事を書くのではありません!
もっと深く自らに向き合って、私のことを綴るのです。
特にネガティブな怒り、哀しみは
そう感じた『私』がいることに意識をして
いくことが大事です。
そう感じる、、原因の種が必ず自分の内側にあるからです。
自分と向き合うことは、その種を見つけて
意識の在り方を変えていくことだと思います。
だからこそ、ネガティブな思いを感じさせてくれる出来事や、人がいてくれることは、ありがたいことなんです(鏡の法則)
自己表現とは、そのことに気づいた私を表現すること。
私達の学びではそこを課題にしています。
綴ったことが、家族や近しい人の絡むことでも、そのことで自分自身が自分を囚われの中にいることを気づかせてくれたなら、
感謝できるし、面と向かっては表現できない
心の動きを理解してもらえるかもしれません。
だからこそ、どんな内容も
『ありがとう』の言葉でしめくくれるのだと思うのです。
全ては『私』
他者は変えることはできませんし、自由意志がある限り、他者をコントロールはできないのです。これは宇宙の法則だからです。
書くことをこんな風に考えたなら
見られたくない!もなくなっていくのではないでしょうか。
ジャーナリング、アナログでもSNSでも、
上手く活用して
自身の意識の上昇に使ってみてくださいね。
