『ハムレット』に始まり、次々と繰り広げられる劇中劇が現実と交錯する。俳優たちの口から紡ぎ出される台詞が甘美な旋律を奏でる。その美しさと裏腹に、通常の客席から引き離されて舞台の上に並ばされた我々は、刃を突きつけられるタフな三時間を過ごした。

 

ナチス治世にあって、クルトは演劇を続ける道を選び、権力者から国立劇場の芸術総監督に指名される。彼は現実を受け入れ、劇場を守るために「最善を尽くすこと」を誓うが、その顔は権力を手にした満足感を押し殺しているかのように見える。

 

クルトの内面の変化は、亡命した恋人レベッカとの文通の中で見て取れる。当初は、ナチスに対して密かなる抵抗を誓っていた彼だが、劇場の予算が増額された途端、「ファシズムも悪くない」と語る。辛うじて劇場を守ってきたクルトの変節が明確になるのは第一幕のラストシーン。ヴィクターは、芸術監督の地位を盟友のクルトに奪われた後も、葛藤を抱えながら劇場に留まったが、最後までレジスタンス運動を止めなかった。ナチス党員である若手俳優のニクラスは新政権を歓迎したが、ナチスの真の姿が明らかになる中で権力に反旗を翻す。二人が連れ去られるのを見捨てた時点で、もはやかつてのクルトではない。ヴィクターとニクラスは虚しく命を断たれる。

 

「演劇とは、人間の同一性と差異を一度に示す芸術である」というピーター・ブルックの言葉が腹に落ちた。私はクルトではないのか。立ち止まって考えるべき場面が訪れる度に、助け船を出す母ヒルダの姿は痛々しく、母の期待に応えたいという彼の気持ちは切なく胸に迫る。母が告白したように、「彼はただの俳優にすぎない」。庶民階級の出であるクルトは、ようやく得た名声を失いたくなかった。実に哀れだ。

 

ドイツの敗戦が近づく第二幕。レベッカと彼女を追って亡命したアンゲラは、小さな部屋でチェーホフの『かもめ』を語る。彼女たちは現実の死も、芸術家としての死も免れたが、その美しい演劇を観る者は誰一人としていない。レベッカとアンゲラの台詞は、変節したクルトへの挽歌のようだ。その時、劇場では、メフィストとなったクルトが舞台に上がる。厚化粧したクルトの異様な表情。メフィストは、ノミを寵愛する王の狂気を語る。やがて、ハムレット、リチャード二世の台詞が交錯する。もはやクルト自身の狂気も覆い難い。

 

最も鋭利な刃を突きつけられたのはラストシーン。かつての愛弟子アンゲラから「痛みを表現してみて」と迫られ、クルトは沈黙するしかない。詞を失った俳優は、もはや何者でもない。

ナチス治世下で演劇人にできたことはあったのだろうか。実際、劇場を去った俳優たちは何ら現実を変える力を持たなかった。それでも、国立劇場の総監督となったことで、クルトがナチスに加担したことは歴史的事実だろう。権力者が欲する「サーカス」を民衆に提供したのだ。総監督に就任して間もないクルトは、新たに恋仲になったニコルに対し、ナチズムを「男性的ヒステリー」だとおどけて話す。一部の偏狭な政治指導者がナチスをつくったことは間違いない。しかし、ナチスに権力を託す選択も、人類史上最悪の犯罪とも言うべきホロコーストも、結局は民衆が容認したものだ。クルトは政治的なヒステリーに巻き込まれたに止まらず、自らもヒステリーを起こしていることに、心の奥底で気がついていただろう。分水嶺はどこにあったのか。彼の得た名声を考えれば、自由な演劇が出来なくなった時点で劇場を閉鎖する選択はなかったか。権力への反逆は、彼に死をもたらしたかも知れないが、ナチスへのダメージとなったのではないか。

 

ここまで来ると、問わねばなるまい。己なら行動できたのか。己に彼を断罪する資格はあるのか。ヘイトスピーチ、嫌中嫌韓、報道の委縮。ヒステリーは伝染する。刃は己と現代社会に鋭く向けられている。

 

シェイクスピア、チェーホフ、ゲーテなどの戯曲が引用される本作品は難解だ。台詞を聞いて戯曲名にたどり着いた観客がどれくらいいたかは疑わしい。私も十分な教養を持ち合わせていない観客の一人だ。クルトがチェーホフにこだわって批判されたように、県立劇団はもっと民衆的であるべきとの声もあるだろう。しかし、私は、世界に通用する演劇をしなければ、SPACが日本で唯一の県立劇団として存在する意味がないと考える。優れた劇団が観客を育て、優れた観客が劇団を成長させる。演劇を終えたばかりの役者と顔見知りの観客が親しく語り合う姿を見て、その思いを強くした。静岡という地方都市の劇団が地域に根を張り、世界と渡り合う姿をこれからも見ていきたい。いかなる時代が来てもそこに残り、人々が拠りどころとするものこそ、地域文化なのだから。

 

SPACが、ナチスに翻弄される劇場を題材にしたことは心強い。クルトは権力者から「あなた方の報酬は、国民の税金によって支払われている」と何度も迫られた。SPACも県民の税金で存在しているのは紛れもない事実だ。芸術総監督の宮城聡は、このことを明確に意識して、『メフィストと呼ばれた男』を演劇祭のメインに持ってきたのだろう。SPACがこれからも権力から自由であり続けることを切に願う。           (敬称略)