だいぶ体調は戻りつつありますが、お腹の調子がイマイチで、風邪気味かもしれません。

手足の痺れ、耳鳴りは相変わらずです。

現在無職ですが、カッコ悪いので自称ミュージシャンという事にしています。

残念な事に中皮腫になってから殆ど楽器に触っておりません。

昨年6月、東京築地Bigbanndのリハーサル(御徒町HMVスタジオ)に酸素付きギタリスト?でチョット参加して以来です。

楽器職人さんに、調整に出していたのが戻ってきたので早速練習開始です。

弦を張り替えて、基礎練習のやり直し。

勿論、ヘタクソになっているのは言うまでもありませんん。

とりあえず、高校生の時に弾けたラリーカールトンのRoom335が弾けるように頑張ります。😰

 

さて、部屋の片付けも目処が付いたので、古いパソコンデーターの整理も開始しました。

古いものは1993年ごろのオリジナル曲MIDIデーターなんかもありますが、人があまり行かない場所でのデーターが出てきたので思い切ってUPしてみます。

中皮腫とは関係ない話なので、飛行機事故に弱い方はスルーしてください。

整理する中で、あまり見たいものではありませんが、後世の為に体験談として記載します。

パートナー様の従兄弟が日航機墜落事故の犠牲者となっています。

当時航空自衛隊に勤務していた父は、百里基地に単身赴任していて休暇で自宅に帰っておりましたが、自宅の電話から当直士官に偵察機を飛ばすよう指示を出しておりました。(その後すぐに非常呼集で片道3時間の百里基地に戻りましたが)

 

パートナー様とお友達として知り合った頃、(15年以上前ですが)私が群馬県出身と言うと、「慰霊登山したい」と言い出しましたので、連れて行ったことがあります。

墜落現場は私の実家から車で2時間ほどのところです。

さて、埼玉の熊谷駅まで迎えに行き、車でU村に向かい「慰霊の園」で殉難された方のご冥福をお祈りしたのですが、当時のマスコミから発表されていない、「生々しい」遺体の写真なんかも展示されており、かなり衝撃を受けました。

肝心の登山道の入り口がよくわかりませんので、付近の商店で聞くことにし、聞きに行くと店主らしきオッサンから、開口一番「ここは観光地じゃねーんだ、帰れ!」と一喝されてしまいました。

「いや、実は諸事情がありまして云々・・・」と事情を話すと、急に優しくなった店主は「そうかい、遠くから大変だいね。お茶でも飲んでいくかい?」と言いながら親切に教えてくれるのでした。

ついでに、店主は消防団の捜索にも参加されていたそうです。

登山道の入り口は、車が4,5台止めれる程度の広場があり、登山者用の杖が置いてありました。(無料)

登山道を歩くこと、概ね30〜40で、昇魂の碑の場所に到着です。

 

登山者同士ですれ違う際は勿論挨拶します。

 

 

当時24歳の従兄弟の名前を確認。

救出された方の隣の席でした。

 

数組の登山者(遺族)が来られていて献花されておられました。

 

木がいまだに焦げています。

 

 

発見された時の座席番号が標識として刺してありました。

 

 

飛行機後尾が落ちていた谷です。

 

ちゃんと慰霊が出来たので、帰りに道を聞いた商店によってお礼を言い帰路につきました。

U村の村長さんも元海軍のパイロットで、終戦時大分航空隊の指揮官だった経験から適切に消防団を指揮して救出活動に尽力、政府と日航に何年も、何十回も働きかけて登山道を整備した事などを知りました。

またU村の方々も登山道の維持管理をちゃんとしているので、大変感銘を受けました。

地元群馬人でもなかなか経験できない、貴重な体験だったです。