男ぎらい(あいつ姿くらまし)

あくまで私の観測範囲のものごとだけに基づいて述べるとするならば(これは以下のすべての文章の枕詞となります)、ミソジニーの男性はおそらく男性だけが存在する世界というものは望んでいない(政治や経済といった公の場においてはそれが達成されることが理想なのだろうけど)のに比べ、ミサンドリーの女性は、あらゆる男性という存在が消え失せた世界があるとするなら、そこを何より安全で理想的な世界だと考えるのではないでしょうか。
前者が、劣位のものたる女が男たちの権利を食い潰し、あまつさえ彼らを拒絶し攻撃することに対して憎悪を抱いているのに対して、後者はひとつの巨大な、得体の知れない脅威≒男に対するほとんど本能的な憎悪を抱いていて。それは男が女にとって精神・肉体両面から自らの実存を脅かす暴力に成り得るからであり、女は男にとってそうではないからだと思います。
この非対称性は男女にまつわる悲劇の根源に長く暗く横たわっていて、それは性的な交わりにおいて最も深い断絶をもたらします。
愛を喰らえ!! (F COMICS)/太田出版

¥1,050
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ルネッサンス吉田『愛を喰らえ!!』は物凄く率直かつ明快に男性嫌悪を、そしてその行き着くところを描き出した作品でした。
主人公の一人・百花は父親から受けた性的虐待を端緒に男性への憎悪を募らせた結果、男性を男性に売る風俗店の店長となった女性です。
「私を犯した父親も体育教師も名前も知らないのに恋人気取りの大学生も予備校の講師もバイトしてたデザイン事務所の社長もそれらの事態を事故の一言で片付けたクソもみんなみんな みんな男だった/事故じゃねえ事件だよ殺人なんだよ死にながら生きてんだよ」(29頁)
「男なんかみんな犯されたらいいんだわ/そんで死ね生きたまま」(同上)
通常の文法で行けば「結果」(=男性嫌悪)の「原因」(=性的収奪)は物語の進行と共に徐々に明かされるものだけど、この漫画ではその「原因」は第1話で(それも主人公の独白という形をとって)一気呵成に提示されます。また、男性を男性に売る風俗という設定も、言葉から受ける印象ほど強烈な描写はありません。
1話冒頭と上記の引用部分前後数頁は、男性性という暴力機構がその犠牲者達にとっていかに醜悪で憎悪に値するかをとても解りやすく表現していて、ほんと男女問わず読んでほしいなと思うわけですが、この、誤解を恐れずに言うならば魅力的な吐露や、男を男に犯させる行為=「男ども」への復讐を物語の核心部分に据えなかったのは、作者が何より「結果のその先」を描きたかったからに他ならず。
トラウマティックな出来事、「魂の殺人」のその後に残された膨大な時間をどうやって生き抜いていくのか。それはトラウマそのもの以上に辛く厳しい課題となって当事者にのし掛かります。
百花はひたすらに思索を繰り返し、自己の内面へと沈み込んでいきながら、傷がもたらす痛みの行く宛を模索し続けます。しかし、作中のスナーク狩りの比喩が示す通り、感情の終着地が憎悪になれば、いずれ自身の破滅を導くことも彼女は理解しています。それがまた実に苦い。
孤独な思索の旅がどん詰まりへと嵌り込む中、必然登場する他者が百花が「売り物」にした青年・内田です。序盤は彼女の聞き役・観察者として、終盤は彼女に歩み寄り彼女を愛する存在として、その傷口に寄り添います。
内田は男性だけれど収奪者の臭気をまとわない、むしろ収奪される側として百花と同位にある人間であり、かつ百花の凹凸を埋めるように成形されたキャラクター、有り体に言ってしまえば彼女の影です。
二人の会話はほとんど自問自答のようですが、内田という「安全な他者」との遣り取りの中で百花は「自分自身を愛せるか」という命題に直面します。
そこに至っての彼女の決断は拍子抜けするくらい明快で、これまでのどす黒い表現の数々に比べたら危ういくらいに優しいもので。頼りなさすら覚えるけれど、希望というものはおしなべてそういうものなのだと深く感じられる結末でした。
「復讐は何も生み出さない」という言説は半分当たっていて半分外れていると思います。トラウマから回復するために「然るべき憎悪」というものは絶対に必要であるけれど、それはあくまで過程の一つに過ぎず。憎悪を押し殺してしまうことも、復讐がもたらすカタルシスに耽溺することも、どちらも決して正しくはない。
他者の暴力によって存在を脅かされた女性は、非対称性と無理解が横溢する世界の中で、どうやって息をしていけば良いのか。思索と対話を繰り返し、傷口から血を流しながら道を探す百花の姿は、そんなのっぴきならない問いに一つの答えを見せてくれました。
作劇は少し不器用であるけれど、だからこそ大なり小なり傷を知る読み手にとっては得るものが大きいのではないかなと思います。劇的な結末ではなく、過程と決断の無数の繰り返しの中に回復はあるのだと教えてくれる。読めば読むほど考えたいことがたくさん出てくる作品でもありました。男女とも読むべし。
(同録されている連作『私信』は、百花の物語ほど強い言葉に縁取られてはいないけれど、はるかに生々しく苦い話でした。漫画を描くために風俗で働き、精神科に通う主人公・優美の、主治医への思慕や風俗店のオーナー(内田に比べてなんとも生臭い存在感)への恋の中で繰り返される小規模な失望と発見の連続は、百花の物語のある種の明快さを戒めるようでもあり。この連作の存在が一冊の単行本の奥行きをグッと深いものにしている。恐ろしいしなんだかちょっと切ないです。)
神様の影を畏れて
映画を2本観ました。ネタバレあり。
『毒戦』

※可愛い顔してルイス・クー割と下衆なもんだねと
面白かった~。頭からおしりまで旨味がたっぷり。
前半の追跡&捜査シーンは緊張の連続で、見てて疲れるくらいの密度。でも本当に面白い。特にジャン警部(スン・ホンレイ)の文字通りの名演技の数々は、キャラクターの格好良さが頭ではなく心で理解できる名シーン。
被疑者との心理戦や無線電波上の攻防を描きながら、まるでオシャレじゃないところが素晴らしいなあと。登場人物たちは皆息の合った連係プレーを見せるけれど、全然スマートに描かれていない。焦りと疲労と緊張でいっぱいいっぱいの表情からは血の通った必死さが伝わってくる。
後半、それまで捜査に協力していた麻薬組織側の男・テンミン(ルイス・クー)が開き直ってからの大銃撃戦は、前半以上の緊張と興奮の連続でホントもうマジですっっっごく面白かった。敵も味方もとにかく人が死ぬ!テンミン、敵も味方も裏切りまくり!女も身内も轢きまくり弾きまくり!可愛い顔して超卑劣!
彼の生への執着は惨めたらしさを越えて美しくすらあり、その「生き延びるため」という本能ゆえの原罪めいた暴力は、銃器を介しながらどこまでも生々しく痛い。求めよさらば与えられん、の精神であります。
強い強いその本能は彼を「最後の一人」に導いたけれど、逃げ延びる事は他ならぬジャン警部の執念が許さなかった、というのはこれ以上ない落とし所だなと。本能を凌駕した正義という理。試合に負けて勝負に勝ったというか。
それにしても眉毛の細い男が一人も出てこないって最高だなあ~。男も女も顔に厚みがある人ばかり。
『オンリー・ゴッド』

最高だった……。
鈍く重く、粘性が極めて高い画面運びがもたらす負荷は、要所に挿入される暴力の(さながら神罰のような)唐突な瞬きとねばっこく混ざり合って、段々遅さという抑圧それ自体が快感になってくる。それは主人公ジュリアン(ライアン・ゴズリング)が毒母から受けていた抑圧と、ハムラビ方式の復讐天使チャン(カラオケおじさん)が結果的にもたらした解放とを追体験させるようでもあり。
「昔の三池映画っぽい」という評を聞いて喜び勇んで観に行ったのですが、本当に三池映画(初期)っぽかった。おれの、おれたちの三池が帰ってきたぞ!みたいな……。Twitterでも書いたけど、全編バンコクロケ&キャストの大半をタイ人で固めるのは『極道黒社会』っぽいバランスだし、カラオケおじさんの存在感は田口トモロヲや『殺し屋1』の塚本晋也を想起させる。色彩とねばっこい間、終幕後のポカン度は『牛頭』。武闘場での徒手空拳の対峙は『漂流街』の吉川VS及川の卓球対決を思い出し。なんというか受け手を戸惑わせる外し方なんだよな。
私が三池映画を好む一番の理由は、無茶や破綻をはらみまくった作品の中から何かしらを読み解こうと苦心する観客たちに「意味なんて無いよ」とサラリと言ってのけながら、しかしその笑った目の端の微妙な皺に、観客たちはやっぱり言葉にならない感傷を読み取ってしまう、そんな所なのです。すみません何言ってるのか全然わからないですね。主客が……。
『オンリー・ゴッド』も、意味深なようで意味なんて無い、でもそこから更に深く潜ったら何かが絶対にありそうな、そんな気配が充満していて本当にたまらなかった。これはギャグだいやシリアスだといった論争がちっぽけに思える、「これはこういうものなのだ」と言い切れる不思議な強度がある作品。
意味と無意味の線上で奇妙にバランスをとりながら、時折真理が鼻先をかすめる。そういう体験をさせてくれる映画でした。サンキューレフン。
『毒戦』

※可愛い顔してルイス・クー割と下衆なもんだねと
面白かった~。頭からおしりまで旨味がたっぷり。
前半の追跡&捜査シーンは緊張の連続で、見てて疲れるくらいの密度。でも本当に面白い。特にジャン警部(スン・ホンレイ)の文字通りの名演技の数々は、キャラクターの格好良さが頭ではなく心で理解できる名シーン。
被疑者との心理戦や無線電波上の攻防を描きながら、まるでオシャレじゃないところが素晴らしいなあと。登場人物たちは皆息の合った連係プレーを見せるけれど、全然スマートに描かれていない。焦りと疲労と緊張でいっぱいいっぱいの表情からは血の通った必死さが伝わってくる。
後半、それまで捜査に協力していた麻薬組織側の男・テンミン(ルイス・クー)が開き直ってからの大銃撃戦は、前半以上の緊張と興奮の連続でホントもうマジですっっっごく面白かった。敵も味方もとにかく人が死ぬ!テンミン、敵も味方も裏切りまくり!女も身内も轢きまくり弾きまくり!可愛い顔して超卑劣!
彼の生への執着は惨めたらしさを越えて美しくすらあり、その「生き延びるため」という本能ゆえの原罪めいた暴力は、銃器を介しながらどこまでも生々しく痛い。求めよさらば与えられん、の精神であります。
強い強いその本能は彼を「最後の一人」に導いたけれど、逃げ延びる事は他ならぬジャン警部の執念が許さなかった、というのはこれ以上ない落とし所だなと。本能を凌駕した正義という理。試合に負けて勝負に勝ったというか。
それにしても眉毛の細い男が一人も出てこないって最高だなあ~。男も女も顔に厚みがある人ばかり。
『オンリー・ゴッド』

最高だった……。
鈍く重く、粘性が極めて高い画面運びがもたらす負荷は、要所に挿入される暴力の(さながら神罰のような)唐突な瞬きとねばっこく混ざり合って、段々遅さという抑圧それ自体が快感になってくる。それは主人公ジュリアン(ライアン・ゴズリング)が毒母から受けていた抑圧と、ハムラビ方式の復讐天使チャン(カラオケおじさん)が結果的にもたらした解放とを追体験させるようでもあり。
「昔の三池映画っぽい」という評を聞いて喜び勇んで観に行ったのですが、本当に三池映画(初期)っぽかった。おれの、おれたちの三池が帰ってきたぞ!みたいな……。Twitterでも書いたけど、全編バンコクロケ&キャストの大半をタイ人で固めるのは『極道黒社会』っぽいバランスだし、カラオケおじさんの存在感は田口トモロヲや『殺し屋1』の塚本晋也を想起させる。色彩とねばっこい間、終幕後のポカン度は『牛頭』。武闘場での徒手空拳の対峙は『漂流街』の吉川VS及川の卓球対決を思い出し。なんというか受け手を戸惑わせる外し方なんだよな。
私が三池映画を好む一番の理由は、無茶や破綻をはらみまくった作品の中から何かしらを読み解こうと苦心する観客たちに「意味なんて無いよ」とサラリと言ってのけながら、しかしその笑った目の端の微妙な皺に、観客たちはやっぱり言葉にならない感傷を読み取ってしまう、そんな所なのです。すみません何言ってるのか全然わからないですね。主客が……。
『オンリー・ゴッド』も、意味深なようで意味なんて無い、でもそこから更に深く潜ったら何かが絶対にありそうな、そんな気配が充満していて本当にたまらなかった。これはギャグだいやシリアスだといった論争がちっぽけに思える、「これはこういうものなのだ」と言い切れる不思議な強度がある作品。
意味と無意味の線上で奇妙にバランスをとりながら、時折真理が鼻先をかすめる。そういう体験をさせてくれる映画でした。サンキューレフン。
破滅の美学とななめの音楽

※三白眼健さん
・『破滅の美学-ヤクザ映画への鎮魂歌-』笠原和夫
仁義なきシリーズの脚本家による、ヤクザ社会の取材録&ヤクザ映画の思い出本。幻冬舎アウトロー文庫とかいうなんだか身も蓋もない名前のレーベル。
侠客ものに比べて、ヤクザ映画の作り手は被写体であるヤクザたちをあまり英雄視しないな~と感じます。あくまでも一歩引いた目線で彼らの社会を活写している。とはいえ笠原和夫がこの本の中で書いているように、彼らのようなアウトロー達にどうしようもなく惹きつけられていたこともを確かだったと思います。仁義なき戦いに端を発する、東映ヤクザ映画の魅力の背景には、作り手達の<男>という存在に対するリアリズムとリリシズムのせめぎ合いがあったのではないかなと感じました。2つのイズムの中にある、異なるロマンが渾然となっているからこそ、単純なカタルシスには行き着かない、熱く混沌とした感情を観客に呼び覚ましたのだろうなあと。
ちょっとおもしろいなと思ったのが、笠原和夫が『緋牡丹お竜』の藤純子を指して「やくざ映画の〈情感〉は女を通しての方がより美しく、より効果的に書けるという手応え」を感じたというくだり。男性の身体は男性の中の男性的でない部分(そしてそれこそが男性の核心だと笠原は考えた)を「美しく」表現するにはあまりにも男性的でありすぎる、ということなのだと思います(男性男性うるせえな)。三島由紀夫の肉体と精神の噛み合わなさが奇妙にグロテスクに感じられるように。
四方田犬彦と斎藤綾子の『男たちの絆、アジア映画―ホモソーシャルな欲望』という編著の中に高倉健の肉体について書かれた論文があるんですが、そこでは侠客ものの全盛期を担ってきた池部良や鶴田浩二が男性的な緊張をまとった肉体であったのに対し、健さんの肉体には彼らとは明らかに違う弛緩があったと指摘されています。筆者は前者を大人の男の完成された身体、後者を大人になりきる前の未完成な身体と定義し、それは当時の映画の観客であった「大人の手前」にいる男子たちの共感を大いに呼んだ、と論じているのですが、男性的でありすぎる体は男性(≠男性性)を十全には表現しきれない、という話とも結びついていくように感じます。
話はまた脱線しますが川原由美子『ななめの音楽』という漫画のことを少し。近未来を舞台に、光子という少女が大戦機に搭乗し飛行レースに参加するという話なのですが、彼女が戦闘機に乗る理由の一つに、第二次世界大戦の記憶を追体験する、というものがありまして。空中戦で敵を撃墜し、敵に撃墜されていった兵士たちの、記録からは削ぎ落とされた歓喜、苦痛、悲哀といった感情群を、光子は自らの身体によって再現しようとしたわけです。
ヤクザや兵士が属するような男性社会は、名誉とは無縁な「弱い(とされる)もの」の感情を忌避する傾向にあり、男の身体の中でそういった情感の部分は表出を許されません。しかしそれが女性の身体で再現されるとき、「男らしくない」という枷が外されるがゆえに、より容易な表出と受容が可能となります。男性たちから奪われ打ち棄てられた「余剰の(しかしそこにこそ人間の核心がある)」記憶を再び掘り起こし弔う女性、という粛々とした構図の中で、男性性というものの寄る辺は非常に危ういものとなっていくわけです。その弔いの中で本当に埋葬されているのは、戦争に象徴されるような「男の社会」そのものなのだから(ネタバレになりますが、『ななめの音楽』最終話で光子は期待と確信を込めて「男性が必要とされない未来」の到来を予言し、後輩の少女・こゆるにプロポーズします)。
『ななめの音楽』を読んで以来、こういうテーマについて考えることが多くなった中で(ジェンダーSF漫画だと庄司創『三文未来の家庭訪問』も面白かったです)、まさか笠原和夫の著書から似たようなインスピレーションを受けるとは思っても見ず。
「これを要するに<男>というのは、子宮を持たない人類の半分が幻想として描いたフィクションであって、実体はどこにもない、というのがわたしの結論だった」
という一文を読んだ時は少し感動すら覚えました。<男>を突き放すにしろ愛するにしろ、それが仮構のものであることを心に留めて置かなければならないと思います。幽霊を殺すことも、幽霊と結婚することも、同様に不可能であるように。
最近読んだやつ
※最近読んだ本・マンガ(順不同)
・『足摺り水族館』panpanya
装丁がメチャクチャ素晴らしい。横線の入ったビニールの薄いカバー(昔母親が持ってた園芸の本にこういうカバーかかってたな~と懐かしい気分に)、やわらかいボール紙のような表紙、インクの匂いを感じる本文、ブックというよりもプロダクトとして完成されてます。
見た目も素敵ですが内容も素敵。主人公が奇妙な街を彷徨する話が多いですが、つげ義春よりも水木しげるや内田百閒(収録作のひとつはそのものずばり「冥途」というタイトル)の影響を感じる、とぼけた浮遊感が魅力的(あと、モノローグは少し模造クリスタルを思い出した)。「雰囲気」があつまってかたまって一つの形を得たような、不思議な存在感の一冊です。おすすめ。
・『チェイサー』① コージィ城倉
コージィの描く男子はほんとカワイイな……。
・『モブサイコ100』⑤ ONE
最近の展開はワンパンマン以上だと思う。
・『直角主義』渋谷直角
ブログはたまに読んでたけれど、『カフェで(略)』が割と面白かったのでまとめ読みしようと思って購入。この人はとにっかく「ギョーカイ」への憎悪があるのだなと改めて。『カフェで(略)』読んだ時、よく言われているようなサブカルを斜め上から笑う揶揄の目線よりも、もっと激しい怒りのようなものを感じたのですが、最も愛し最も憎んでいる世界でふと我に返り続け、底無しのメタ地獄の中で己と取っ組み合い続けながらも、それを露骨に表出することは避けた(きっと90年代サブカル特有の矜持なのだと思う)、その結果こういうものができちゃったんじゃないかな~と勝手に想像してます。「こじらせ」という言葉がなかった時代をこじらせながら生きてきた人のそういう感じってこんな風になるんだ、みたいな。
人間観察系の記事はどれも普通に面白い。パーソンズのJILL。
・『血界戦線』⑧ 内藤泰弘
あまり言及してる人見かけないけど面白いよ!箱庭系ゲームの楽しさもちょっと入ってるかも。
・『真・女神転生デビルチルドレン』③ 藤異秀明
ボンボン派だった過去のお供養。ゲーム本編(最初に触ったアトラスゲー)含め大変影響受けました。
唐突に思い出したんですがそういえば末期のボンボンはいましろたかしを連載させてたんだよな……何考えてたんだ……。
・『オンノジ』施川ユウキ
各話に挟まれるポエミーなモノローグよりも、ミヤコとオンノジのバカバカしいやり取りを見ている方がなんだか泣ける。
※これ大好き
・『ハイスコアガール』⑤ 押切蓮介
大野がこれ以上可愛くなったらどうしよう、死ぬかもしれない。
巻が進んでもゲームが作劇上のツールにならず、目的であり続けているのは読んでて心地いい。愛だろうなあ。
・『さよーならみなさん』西村ツチカ
西村ツチカが描く男性って惚れ惚れするくらい気持ち悪い……。作者本人はどういう気持ちで「彼ら」を描いているのかしら。自覚的なのかどうなのか。
・『他人事』平山夢明
小粒でもエグい、苦虫が這い回るような短篇集。表題作は間違いなく傑作。文庫版はあとがきが冨樫!
笠原和夫『破滅の美学』については次記事に。
7、8月観たライブ(山本精一関係)
7/24秋葉原グッドマン
久土'n'茶谷→KIRIHITO→日野繭子+山本精一+HIKO(ユニット名忘れた)
ノイズユニットのお披露目会みたいな。ギター、ドラム、あとあのツマミ一杯付いてるやつ(何て呼ぶのあれ)の三点セットだけのかなりシンプルな構成。ストイックな轟音はHIKOさんの見た目もあいまってか仏事っぽかった。精一さんは最後にマイクに向かって叫び、ギターを叩きつけて帰って行きました。法悦。
これだけ雑味を排したノイズをあえて今やるのって○○階段へのカウンターなのかな~と思ってたら案の定日野繭子がTwitterでBIS階段に絡んでてやっぱりあの界隈にムカついてたんだなと納得。内ゲバだ。
7/25バウスシアター
50人限定弾き語りライブ
アコギでの弾き語りはほとんどやらないらしく(確かにあまり覚えがない)そういう意味でも貴重なライブだったかもしれない。アコギ一本の「ハウリングサン」、最高だった。
スクリーンが後ろにあるからか客席から観ると四角い枠の中に演奏する姿が収まっているように見えてどこか絵画的な印象を受けました。美しい一枚絵。
アンコールでは堺正章の「さらば恋人」を演っていてビックリ&嬉し。好きな曲なので。知ったきっかけは野性爆弾のコントだけど。
山本精一関係のライブは注意書きがあっても録音機器持ち込んでる客(大抵陰気そうな中年男)がよくいて見かけるたびにちょっと嫌な気分になるんですが、こういう人は家で独りでシコシコ聴いたりしばらくしてからネットに上げてうp感謝とか言われるために録音してるのかなと思うと余りにも哀れっぽくてやっぱり勘弁してくれよと思う。侘しい想像させんなよ。
8/16UFOclub
『LIGHTS』レコ発
立ちっぱなしで聴くのはちょっとしんどかったけどご本人はとてもリラックスしてて楽しそうでした。客よりチルってたと思う。曲作ってる現場を覗き見するみたいな感じがありました。
楽屋のドアに「追とう 山口冨士夫」と書かれた紙が貼ってありました。
8/31代官山ユニット
山本精一→早川義夫→早川義夫と山本精一
16日とは打って変わってかしこまったライブ。早川さん効果だろうな、一音一音に神経が行き届いた完成度の高い演奏。本当に単純な話だけど、べらぼうにギターが上手いからこそこんなに表現力が豊かなんだよなあと実感。新旧羅針盤織り交ぜたバランスの良いセトリでした。
生で早川さんを観るのはこの日が初めてだったのですが圧倒されました。凄かった。歌にも打鍵にも叩きつけるように情念が込められていてこれは地獄の音楽だと思いました。MCは尾木ママみたいだったけど。「身体と歌だけの関係」聴きたいなと思ってたので演ってくれて感動。
アンコールの二人の共演も、最初は控え目だった精一さんが段々大胆に絡みだしていく所とかとても良かったです。動的なアンサンブル。微妙な距離感がかえって面白く作用してた感じ。
漂うような精一さんの歌と穿つような早川さんの歌は互いが互いを良し悪し引っくるめて際立ててしまう程に正反対の表情をしていたけれど、源には同じ孤独があるように感じた。双子の孤独。似てないけれど同じもの。
久土'n'茶谷→KIRIHITO→日野繭子+山本精一+HIKO(ユニット名忘れた)
ノイズユニットのお披露目会みたいな。ギター、ドラム、あとあのツマミ一杯付いてるやつ(何て呼ぶのあれ)の三点セットだけのかなりシンプルな構成。ストイックな轟音はHIKOさんの見た目もあいまってか仏事っぽかった。精一さんは最後にマイクに向かって叫び、ギターを叩きつけて帰って行きました。法悦。
これだけ雑味を排したノイズをあえて今やるのって○○階段へのカウンターなのかな~と思ってたら案の定日野繭子がTwitterでBIS階段に絡んでてやっぱりあの界隈にムカついてたんだなと納得。内ゲバだ。
7/25バウスシアター
50人限定弾き語りライブ
アコギでの弾き語りはほとんどやらないらしく(確かにあまり覚えがない)そういう意味でも貴重なライブだったかもしれない。アコギ一本の「ハウリングサン」、最高だった。
スクリーンが後ろにあるからか客席から観ると四角い枠の中に演奏する姿が収まっているように見えてどこか絵画的な印象を受けました。美しい一枚絵。
アンコールでは堺正章の「さらば恋人」を演っていてビックリ&嬉し。好きな曲なので。知ったきっかけは野性爆弾のコントだけど。
山本精一関係のライブは注意書きがあっても録音機器持ち込んでる客(大抵陰気そうな中年男)がよくいて見かけるたびにちょっと嫌な気分になるんですが、こういう人は家で独りでシコシコ聴いたりしばらくしてからネットに上げてうp感謝とか言われるために録音してるのかなと思うと余りにも哀れっぽくてやっぱり勘弁してくれよと思う。侘しい想像させんなよ。
8/16UFOclub
『LIGHTS』レコ発
立ちっぱなしで聴くのはちょっとしんどかったけどご本人はとてもリラックスしてて楽しそうでした。客よりチルってたと思う。曲作ってる現場を覗き見するみたいな感じがありました。
楽屋のドアに「追とう 山口冨士夫」と書かれた紙が貼ってありました。
8/31代官山ユニット
山本精一→早川義夫→早川義夫と山本精一
16日とは打って変わってかしこまったライブ。早川さん効果だろうな、一音一音に神経が行き届いた完成度の高い演奏。本当に単純な話だけど、べらぼうにギターが上手いからこそこんなに表現力が豊かなんだよなあと実感。新旧羅針盤織り交ぜたバランスの良いセトリでした。
生で早川さんを観るのはこの日が初めてだったのですが圧倒されました。凄かった。歌にも打鍵にも叩きつけるように情念が込められていてこれは地獄の音楽だと思いました。MCは尾木ママみたいだったけど。「身体と歌だけの関係」聴きたいなと思ってたので演ってくれて感動。
アンコールの二人の共演も、最初は控え目だった精一さんが段々大胆に絡みだしていく所とかとても良かったです。動的なアンサンブル。微妙な距離感がかえって面白く作用してた感じ。
漂うような精一さんの歌と穿つような早川さんの歌は互いが互いを良し悪し引っくるめて際立ててしまう程に正反対の表情をしていたけれど、源には同じ孤独があるように感じた。双子の孤独。似てないけれど同じもの。


