作家になれる人は作品を完結できる人 朝ドラ「半分、青い。」斎藤工の語る「作家論」 | かなこの「恋はときどき」

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 作家になれる人となれない人の差は、作品を最後まで書き上げられるかどうか――こんな作家論がNHK朝ドラ「半分、青い。」で語られた。脚本家・北川悦吏子の作家としての思いはこれまで、トヨエツ演じる漫画家の口を通して語られてきた。主人公が秋風とたもとを分かったったいま、代わりに作品論を語るのは斎藤工演じる映画監督だ。

 

 7月23日の放送では、主人公鈴愛(永野芽郁)が結婚した映画助監督の涼ちゃん(間宮祥太朗)が、師事する元住吉監督(斎藤)に脚本を見せろと言われ、これまで書き上げたことがないことを告白する。飽きてしまうからではない。本が途中までしか書けない理由を、涼ちゃんはこう語る。

 

物語が閉じるのが寂しいんです。自分の作る物語が終わるのが嫌なんです」。子どもの頃、自分の好きな絵本や小説も「終わらないでくれ、終わらないでくれって、1ページずつ読ん」だように、自分の物語も終えたくないのだと言う。「物語の中に、途中にいたいんです」。その世界が閉じてしまうと思うと、胸が苦しくなるのだと。

 

 確かに、物語を書いている間は、作者は、物語の中で生きる登場人物たちと一緒に時間を過ごすことになる。エンドマークを打つと、その作品世界は完結する。作者にとっては、登場人物たちと過ごした時間が終わってしまうことになる。でも、完結しない限りは、他者(読者や視聴者)と、その小説や映像の世界を共有することもできないのだが。

 

 そこで元住吉監督は、涼ちゃんを評して「愛が深いのかな」と言う。だが「分からなくもない。俺なんて“2”作ってる。終わったはずの『追憶のカタツムリ”2”』」と、理解も示す。でも2を作れるのは、1が完成しているからなのだが。

 

 そして、涼ちゃんに、では原作ものを脚色しみろと勧める。「最後まで書く」勉強をしろ、と。とりあえず脚本にすることで、「最後まで書くってことを身に着ける。大事なんだよ、最後まで書くって、何でもいいから」。あらかじめ「終わっている」作品なら「終わらせても罪はない」と涼ちゃんも同意する。そして元住吉はこう言う。

 

「映画監督や作家目指してても、第一作が最後までたどり着かない奴はたくさんいる。そういう場合は、夢に夢見てたってわけだ。スタート地点にも立ってない」

 

 映画監督になりたい、作家や脚本家になりたい、という人はごまんといる。だが、憧れる人のうち、本当になれる人はごくわずか。その差は、作品を書き上げられるかどうかだ、とうのだ。これは、脚本家の北川の実感なのだろう。彼女の周囲にも、そういう作家未満・監督未満の「夢に夢見て」「スタート地点にすら立たない」まま、夢破れて諦め、業界を去って行った人々が多いのだろうか。

 

 問題は、涼ちゃんが、その一握りになれるかどうか、だろう。たとえ原作ものだとしても、最後までちゃんとたどり着けるのか。作品世界を「閉じる」ことができるのか。つまり、一つの作品を他者の鑑賞に堪えるような「世界観」として完成させることができるのか。

 

鈴愛は妻として涼ちゃんを支えるという。夢見る人は美しいし、その人の夢を側で応援したいと言う鈴愛の気持ちも分からなくはない。でもそれは、夢が実現できない場合、ただのプレッシャーになってしまう危険性もあるのだけれど。涼ちゃんが、本物であることを、作品の世界観を作ることのできる人であることを、願うのみだ。

(2018・7・23、元沢賀南子執筆)