言葉の話 | 吾輩はヒルシュ類縁で短腸のアラサーである。

吾輩はヒルシュ類縁で短腸のアラサーである。

腸管神経細胞僅少症(ヒルシュスプルング病類縁疾患)により短腸症候群になりました。SLE、肝硬変に振り回されつつ、七転八起しながら生きているアラサーです。
日常のことや病気のことを書いていきます。
質問、コメントお待ちしてます(*´∀`)

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何となく感じることをグダグダ書くよ。
わかりにくいだろうけど、許してください。
 
 
高校時代、言葉が溢れるように心から湧いてた。「Baccara」見るとわかるけど、凄いでしょ?
でも、大学入って年々減ってる気がするの。書きたいことがないほど、毎日ハッピーかって、そういうわけでもないんだけども、少なくなってる。
 
 
原因は二つ考えられて、一つはどこかで聞いたことだけど、「詩や絵などの創作物は、欲求不満や葛藤、苦しみがなきゃ生まれにくい」んだって。
 
 
あ、思い出したわ。西條八十の詩集のあとがきだ。その詩集、前半のちょっと病んでる感じのが魅力的だと思ったし、あとがき書いた人もそう言ってた。んであとがきの人曰く、「詩集の後半部分は、西條が結婚して満たされた頃のもの」らしいのね。で、その部分の後に先に書いた、「詩や絵などの創作物は、欲求不満や葛藤、苦しみがなきゃ生まれにくい」がくるんだ。・・まぁ、この文章うろ覚えなんだけども(爆)
 
 
二つ目は不感症よ、心の。中高はさ、見たくないこと聞きたくないことでも、嫌でも見たり聞いたり感じてしまったのね。それで、心が掻き乱されて、それによって言葉が溢れてた。言葉というか、感情かなぁ。あたしの言葉は感情が占める部分が大きいから。
 
 
んで今はというと、ある程度見たくないこと聞きたくないことはシャットダウンできてしまうのね。「あ、これに触れると鬱のスイッチ入るな」と思ったらサッと身を引ける。これはきっと生きてく上では重要なスキルだと思うし、お陰で心穏やかに過ごせていると思う。
だがしかし、だ。怖くなるんだよ、このまま何も感じずに生きていくのかなぁって思うとね。わりと日々を考えたり思ったり感じたりせずに生きている気がするの。悩むことはあるんだけど、何かを「感じる」ってことが本当に少ない気がする。
・・まぁ、このタイミングだから特にそうかもしれないけど(院試まであと2週間と少し)
 
 
 
あとあれだ、大学入って社交的になって、あたしの心のベクトルは外部に向きやすくなった半面、自分の心や感覚にベクトルを向けることが少なくなったのかもしれない。
 
この話の着地点がまったく見えないわけだけど、とりあえず高校時代とは違う、「今」のあたしの感覚をもっと意識して、ブログでもなんでも良いんだけどきちんと目に見えるように記録していきたいなと思った。
 
 
 
 
 
 
こんなふうに勢いで、ぶわーっと感覚的なことを書くのも久しぶりかもしれない。凄く気持ちいい。
日本語があってるあってないとかじゃなく(思えば近頃そういうことを気にする文章ばっかり書いてる)、自分の気持ち、感覚に近い言葉を自由に選んで、なければ作って、そうやって発信できる場所があるのは幸せだなぁと思った。
まぁ、蒼ノ介語ばかりで書いていては人には伝わりにくい文章になるんだろうけども(笑)
元々、人が読むことを意識して日記とか書ける人じゃないんだけどねーww
 
 
そんなわけで長々と書いたけど、そろそろおーわり。明日も大学行くからそろそろ寝ますー。
 
んじゃ、おやすみなさい