◎「はたし(果たし)」(動詞)

「はて(果て)」の使役型他動表現。活用語尾はK音であるが、「(夜が)あけ(明け):自動表現」「(夜を)あかし(明かし):他動表現」のような変化。果てた状態に、終局を迎える状態に、すること。

「大太刀(おほたち)を 垂(た)れ佩(は)き立(た)ちて 抜(ぬ)かずとも 末(すゑ)果(は)たし(婆陀志)ても 會(あ)はむとぞ思(おも)ふ」(『日本書紀』歌謡89:大太刀を帯びている。その太刀を抜かなくても、後(のち)を終局させ、完成させても、(女に)会はむと思う。これは、一人の女を二人の男が奪い合っている情況の歌であり、男の一方が他方に向けたもの。人を果(は)たす、人を終局させる、という表現は、殺す、という意味になりうる)。

「…ともにあらむと 玉の緒の 絶えじい妹と 結びてし ことは果(は)たさず 思へりし 心は遂げず…」(万481:これは妻が亡くなった際の挽歌。「絶えじい」の「じ」は文法で打消しの助動詞と言われるそれ(活用はない。その「じ(助動)」にかんしてはその項。「い」は代名詞のような「い」(その項)。全体は、絶えないその…、のような指し示しの強調表現になっている)。

「しかれば、稽古するところの因おろそかなれば、果(クヮ)を果(はた)すこともかたし」(『風姿花伝』:因は「初心よりの芸能の数々」。果は名を得ること。「はたし」は、終局させる、ということですが、それはそれとしての終局であり、「はたし」は、完成させる、という意味にもなる)。

「『あゝ、扨々(さてさて)そなたはわゝしい人じや。打はたせば命がおりない』」 (「狂言」『千切木(ちぎりぎ:契木)』:うちはたせば死ぬ)。

 

◎「はだし(裸足)」

「はだホあし(肌歩足)」。肌で歩く状態の足。足先になにも履物を履いていない。

「踱跣 ………波太志」(『新撰字鏡』:「跣(セン)」は『説文』に「足親地也」とされる字。「踱跣(タクセン)」は裸足で歩み行くこと)。

「中納言見つけて、南の階(はし)よりはだしにて下りおはして…」(『宇津保物語』)。