「はとや」。この「は」は、「はぜ(爆ぜ)」その他にもあるような、変化出現を表現する情動的な発声ですが、ここでは、客観的な変化出現を表現するわけではなく、内的な変化出現を表現する。内的な変化を表現する原始的な発声ということ。「と」では思念的になにかが確認され、「や」は詠嘆。内的な変化出現、内的な発生(想的・思念的な発生)、にかんしては、その発生する思念の内容やそれによって起こる情動の種類に具体的な限定性はない。それが「はた」という語の意味のわかりにくさになっている。なにごとかが想い浮かび、「は」としていることだけが表現される、そんな語なのです。内的変化出現・想起、が次々と起こる「はたまた」という表現もある。
この「はた」の漢字表記がおもに「将(シャウ)」と書かれるのは、この字が起動力のようなものや起動を表現し(→「船将启(啓)碇」(船は碇をあげようとしている))、「はた」による想的・思念的発生がそうした人の起動であり人を動かす起動力だということでしょう。
「是(こ)の時(とき)に、廐戸皇子(うまやとのみこ:後の聖徳太子)…………自(みづか)ら忖度(はか)りて曰(のたま)はく、「將(はた)、敗(やぶ)らるること無(な)からむや。願(ちかひこと)に非(あら)ずは(誓願をたてることをしなければ)成(な)し難(がた)けむ」とのたまふ」(『日本書紀』:物部の軍と戦う際に起こる危険な情況が想的に、思念的に発生している)。
「痩(や)す痩(や)すも 生けらばあらむを(痩せていても、それは生きているからそうなんだ) はたやはた(波多也波多) 鰻(むなぎ)を漁(と)ると 川に流るな(鰻をとるとか言って河に流れちゃいけないぞ(気をつけろ)):痩せているから鰻を食べろとか言われて、そんな話に簡単にのせられてたまるか」(万3854:鰻を取る際の危険な情況が思念的に発生している)。
「是(ここ)に、許勢臣(こせのおみ)、王子惠(せしむくゑい)に問(と)ひて曰(い)はく「爲當(もし)此間(ここ)に留(とどま)らむとや。爲當(はた)本鄕(もとのくに)に向(い)なむとや欲(おも)ふ」」(『日本書紀』:とるべき二つのみちが想的に発生している)。
「「見ても思ふ見ぬはたいかに嘆くらむこや世の人のまどふてふ闇」(『源氏物語』:見ていてもあんなに思うという情況で見ないことの思いが想的に発生し思われる)。
「「(我が子と)知りながら、はた、率て下りねと許したまふべきにもあらず」」(『源氏物語』:我が子と知りながら筑紫にくだることを許すかどうかの心情が想的に発生している)。
「み吉野の山のあらしの寒けくにはたや(為當也)今夜も我が独り寝む」(万74)。
「郭公(ほととぎす) はつこゑきけは あちきなく ぬしさたまらぬ こひせらるはた」(『古今和歌集』:現実認識、その自己の現状の再確認が発生し、強調され、なぜこうなるんだ、という思いが表現される)。
「「この君は、人柄もめやすかなり。心定まりて、もの思ひ知りぬべかなるを、人もあてなり。これよりまさりて、ことことしき際(きは)の人、はた、かかるあたりを、さいへど、尋ね寄らじ」」(『源氏物語』:これよりまさる人が「かかるあたりを尋ね寄る」(自分たち程度の者の娘のところに来てくれる)ことが想的に思われ思念的に発生している)。
「この女の家はた、避(よ)きぬ道なりければ…」(『源氏物語』:進行路の可能性が思念的に思われいろいろ発生している)。
「「…あはれにはた聞こえたまふなり…」」(『源氏物語』「東屋」:薫の心情が想的に思われ発生している。あの方は真に感嘆しお思いになっている、ということ)。
「さを鹿の鳴くなる山を越え行かむ日だにや君がはた(當)逢はざらむ」(万953:さを鹿の鳴く山を越え行くような日にも(そんな思いの日にも)君は逢わないだろう―そんな情況にある自分が想的に発生し、思われ、なぜなんだ、という思いが生まれている)。
「「此の浅き道はた否知られじ。我のみこそ知たれ…」」(『今昔物語』:「此の浅き道」が知られる情況が思われている)。
「男の御容貌、ありさま、はたさらにも言はず。」(『源氏物語』:この「はた」は、一般に想的に思われ思念的に発生するそれが言われている)。
「くはしくきこえおきて、その事かの事など、おほかたなる御文の御返り、はたあべいほどに(はたあるべきほどに)きこえたまひて」(『夜の寝覚』:そうした場合に一般にふつうであることが思われている)。
「ひとへに魔王となるべき大願をちかひしが、はた平治の乱(みだれ)ぞ出きぬる」(『雨月物語』)。
「しばしやすらふべきに、はたはべらねば…(少しの間ここで息(やす)んでいることもできず)」(『源氏物語』:(相手の女が草薬の匂いが強く、ひどく臭いという)そうした情況で息(やす)んでいることが想的に思われ思念的に発生している)。
「この男、はた宮仕へをば苦しきことにして、ただ逍遥をのみして」(『平中物語』:この男が宮仕へを苦しきこととしたことが思われ、なぜだろう、という思いがわいている)。
「七月ばかり、いみじう暑ければ、よろづの所あけながら夜も明かすに、月のころは、寝おどろきて見いだすに、いとをかし。闇もまた、をかし。有明はた、いふもおろかなり」(『枕草子』)。
「「…今はた、かく世の中のことをも、思ほし捨てたるやうになりゆくは…」「いと たいだいしきわざなり…」と………さゝめき歎けり」(『源氏物語』:これは、桐壺更衣が亡くなったのちの帝の様子を言っているわけですが、最愛の人がなくなった人一般の状態が想的に思い浮かんでいる(今頃は普通はそうはならないのに、ということ))。