「ふあけら(経明け等)」と「へあけら(経明け等)」がある。「ふあ」「へあ」は「は」になり、R音は退行化しつつ「けら」は「か」になっている。「あけ(明け)」は自動表現であり、開放が起こっていることは同時になにごとかが終了したことを表現する→「夜明け」。「ら(等)」はなんらかの情況にあること、そうした情況のこと・もの、を意味する。語頭の「ふ(経)」「へ(経)」は動詞「へ(経)」の終止形・連用形ですが、これらは経過があることを表現し、「ふ(経)」はそのU音の遊離した動態感により(→「いく(幾)」の項)、想的な、それゆえ未来的な、経過を表現し、「へ(経)」は、そのE音の外渉的進行感により現実進行的・進行完了的、経過を表現する。いずれにしても「はか(努果)」は、なにごとかの経過が終了した情況たることやものを表現する。人の努力たる経過が終了した情況たることやもの、とはその努力の成果です。
「はかが行く」(成果進行がある)。「はかばかしい」(成果進展的であること)。成果がなければ「はかなし」。これらは現実進行的・進行完了的、経過による成果。「はかどる(捗る)」はその項。
「努果」という漢字表記はここだけのものであり、一般性はない。
「秋の田を我が刈(か)りばか(苅婆可)の過ぎぬれば雁(かり)が音(ね)聞こゆ冬かたまけて」(万2133:私の刈り分は過ぎて…(終わり…)。「我が刈(か)りばか」の状態があるということは、担当する部分が決められ、共同的に稲作がおこなわれているのでしょう。刈りばか、の状態が過ぎてなくなった、ということは、刈られた、ということ。秋が深まり、冬がやってくるのか…という歌ですが、「刈(か)り」と「雁(かり)」がかかっているということか。最初の「を」は「の」と表現する人もいる。原文は単に「秋田」。この「ばか(婆可)」は「ふあけら」。あらかじめ決められた想的成果)。
その推量結果たることを意味することもある。「(私が)からをだに憂き世の中にとどめずはいづこをはかと君も恨みん」(『源氏物語』:「から」は、亡骸・死骸のこと。どこを恨みの成果としてあなたも恨むだろう。この「はか」は推量される恨むことの成果)。
「わかやとは ゆきふるのへに みちもなし いつこはかとか ひとのとめこむ」(『寛平御時后宮歌合(かんぴやうのおんとききさいのみやのうたあはせ)』:我が家(やど)は 雪降る野辺に 路(みち)もなし 何処はかとか 人の求(と)めこむ)。
「はかもなき なつのくさはに おくつゆを いのちとたのむ むしのはかなさ」(『寛平御時后宮歌合(斑子女王歌合)』)。
「ある朝、磯の方より蜻蛉などの如くに痩せ衰へたる者一人よろぼひ出で来たり……………片手には魚を持ち歩むやうにはしけれどもはかも行かずよろよろとしてぞ出で来たる」(『平家物語』)。
「六祖モ二僧ガハカモユカザル議論ヲスルホドニコラヘカネテ…」(『禅宗無門関私鈔』「非風非幡」 第二十九則:知的な成果もすすまない議論)。