「な」の客観的な全的認了感、全的な社会的(物的・意味的・価値的)均質感(「な(二人称)」・その「・N音の語音性」の項)、にO音による目標感・対象感(「おき(置き・措き)」の項)が生じている。この対象感はものやことの存在感になる。「AのB」という表現は、Aと認了されるB、Aという全的認了にあるB、Aという社会関係(物的・意味的・価値的均質感)にあるBを意味する。たとえば「彼(かれ)の本」と言った場合、それは「彼(かれ)」という社会的関係(物的・意味的・価値的均質感)にある本を意味する。彼(かれ)という社会的意味・価値均質感にあるとは、その本が社会的に彼に帰属することを意味する。それは彼が所有する本かも知れない、彼が書いた、社会的に彼に帰属する、本かも知れない。所有である場合、それが具体的にどのような係わりであるかは歴史、文化、習慣、法律によって決まる。「AのB」という表現は多種多様に及ぶ。AやBが、ものであることもあれば、ことであることもある。Bが省略されることもある。「銀座四丁目の交差点」、「秋の田」、「プラスチックの玩具」、「虎屋の羊羮」、「玉の小櫛(をぐし)」、「賎男の伴(しづをのとも)」(身分の低い者であるところの伴(とも)。愚者の彼、のような表現:賎男(しづを)に帰属する伴(とも)、ではない。賎男(しづを)である伴(とも))、「良房(よしふさ)の大臣(おとど)」(良房であるところの、良房なる、大臣)。「AのB」の「A」が動態になることもある。「大君(おほきみ)の設(ま)けのまにまに」(大君のお考えのままに)。「A」が形容態であることもある。「をかしの御髪(みぐし)や」(興味深い髪だ)。「の」以下が省略され(下記※)「の」が「A」の部分で表現された事象のように表現されることもある→「そういうことを言うのは良くない」。「AのB」の「B」が動態や形容態であることもあり、動態である場合「A」がその主体のような表現になる。その場合、「A」が名態ではなく動態である場合もある。「幾代までにか年の経ぬらむ」(どれほど年を経ているんだろう:「B」が動態)、「寝(い)の寝(ね)らえぬ」(熟睡できない:「B」が動態)、「雲のいちしろく」(雲のように明瞭に:「B」が形容態)、「見のさやけく」(視覚印象が冴えわたった印象で:「B」が形容態)、「女の…難つくまじきは(難くもあるかな)」(女で難がつきがたいものは(なかなかいない))。「B」が動態の場合、「A」がその主語のような表現(主格の「の」)になるが、それはあくまでも「A」という社会的意味や価値の「B」が客観的に表現されているのであって、主体的主語表現たとえば「苦労しつつ彼が見知らぬ山を越え」を「苦労しつつ彼の見知らぬ山を越え」と、「が」を「の」で表現することは困難に出会う。

※ 「の」以下の省略ですが、たとえば「おい、若いの」などという呼びかけは、Aは形容詞ですが、「の」に続く思念的になにかを指し示す「それ」(「それ(其れ)」「そ(其)」)が省略され、「それ」によりそのある情況にあるものやことたる存在感(この場合は人)が表現されている。「寒いのなんのって」などという場合も「それ」による(温度にかんする)環境情況が表現されている。「みんなでシャベルだのなんだの持ち出して」などという場合、「シャベルだ」と言い得る、や、そのようななにかだ、と言い得る情況にあるものを指し示す「それ」が省略されている。「日本ニハ裳ノヒ(緋)ノ袴ノナントゝ云テヒキスルハイワレモナイ事ソ」(『史記抄』)。

「確(しか)とそなたの産んだ若殿でないの」(「歌舞伎」『阿弥陀が池新町』)や、「あんたそう言ったじゃないの」なども、産んだり言ったりしている事象たる「それ」が省略され、産んだり言ったりしていないことが全的に認了される産んだり言ったりしている事象、と言い、産んだり言ったりしているのに産んだり言ったりしていないかのようだ、と言っている。「帰るの」などは「の」以下が省略されつつの「帰る」という動態にあることの認了ですが、「の」のアクセントがあがり「帰るの?」になると、その認了に疑問が生じていることが表現される。

 

「紫(むらさき)の(能)にほへる妹(いも)をにくくあらば人妻ゆゑに吾(われ)恋ひめやも」(万21)。

「嬢子(をとめ)の(能) 床(とこ)の辺(べ)に 我(わ)が置(お)きし つるぎの太刀(たち) その太刀(たち)はや」(『古事記』歌謡34)。