「ねねくき(ね音潜き)」。「くき(潜き)」は、子音K音の交感と、母音U音の遊離感のある動態感(「いく(幾)」の項参照)により侵入的語感が表現される(→「くき(潜き)」の項・2021年9月18日)。意味は「もぐり(潜り)」に似、何かにもぐることともぐって出てくることの双方(つまり「くぐる(潜る)」)を表現している。「ねねくき(ね音潜き)→ねぎ」は、「ね」の音(ね)が潜(もぐ)りぬける、のような意味になるわけですが、どういう意味かというと、この語頭の「ね」は全的認了による呼びかけの「ね」であり、意思や思い、願いや心情、にかんする相手との均質の働きかけをする(→「な(助・副)」の項、その「・全的認了による呼びかけ」(5月23日))。たとえば、相手に何かを願ったり、心情を同じくすることを伝えたりする。その「ね」の「音(ね)」が潜(もぐ)り出るような状態になる、とはどういうことかというと、「ね」という言葉が、言語が、伝わるのではなく(それが理性として伝わり理解されるのではなく)、その音(ね)が、その響き、影響、が伝わる。そしてそれは潜(もぐ)り、見えなくなり、未知のどこかに現れるような伝わり方をする(それが届いたかどうかはわからない)。それが「ねねくき(ね音潜き)→ねぎ」。たとえば「神をねぎ」と言った場合、神を「ねね(ね音)」がくき、という表現になる。その音(ね)が潜(もぐ)っていくように浸透していくなにものかは、主に神や魂(たま)であり、人の場合は、その苦しい心情に同質化しその苦をやわらげる動態が表現される。前者のような用いられ方は「ねがひ(願ひ)」という語になり、後者のような用いられ方は「ねぎらひ(労ひ)」という語になる。
この動詞は上二段活用ですが、後に四段活用の「ねぎ」も現れる。また、この連用形名詞化「ねぎ(禰宜)」は神職・神職の者を意味する語にもなっている。
「既(すで)にして則(すなは)ち荒魂(あらみたま)を撝(を)き(招き)たまひて、軍(いくさ)の先鋒(さき)と爲(な)し、和魂(にきみたま)を請(ね)ぎて、王船(みふね)の鎭(しづめ)としたまふ」(『日本書紀』)。
「天皇(すめらみこと)小碓命(をうすのみこと)に詔(の)りたまひしく、「何(なに)しかも汝(いまし)の兄(いろせ)は朝夕(あさゆふ)の大御食(おほみけ)に不參出(まゐで)來(こ)ざる。專(もは)ら(専心し)汝(いまし)泥疑(ねぎ)教(をし)へ覺(さと)せ 泥疑二字以音 下效此」とのりたまひき。如此(かく)詔(の)りたまひて以後(よりのち)、五日(いつか)に至(いた)りて、猶(なほ)參出(まゐで)ざりき。爾(ここ)に天皇(すめらみこと)小碓命(をうすのみこと)に問(と)ひ賜(たま)ひしく、「何(なに)しかも汝(いまし)の兄(いろせ)は、久(ひさ)しく參出(まゐで)ざる。若(も)し未(いま)だ誨(をし)へず有(あ)りや」ととひたまへば。「旣(すで)に泥疑(ねぎ)つ」と答え白(まを)しき。又(また)「如何(いか)にか泥疑(ねぎ)つる」と詔(の)りたまへば。 答(こた)へて白(まを)しけらく、「朝署(あさけ)に廁(かはや)に入(い)りし時(とき)、待(ま)ち捕(とら)へて、搤(つか)み批(ひし)ぎて、其(そ)の枝(えだ)を引(ひ)き闕(か)きて、薦(こも)に裹(つつ)みて投(な)げ棄(す)てつ」」(『古事記』:小碓命(をうすのみこと)は兄を労(ねぎら)ったわけではない。兄にかんしある願いをし、それを現実とした)。
「…天皇我(すめらわ)れ うづの御手(みて)もち かき撫でぞ ねぎ(祢宜)たまふ うち撫でぞ ねぎたまふ 帰り来む日 相飲まむ酒ぞ この豊御酒(とよみき)は」(万973:これは労(ねぎら)った)。
「祝 …イハフ ハフリ……ネグ」「唁 …トブラフ…ネグ」(『類聚名義抄』)。
「をやまたの みたしせしより あめにます いはとのかみを ねかぬ(祈(ね)がぬ)ひ(日)そなき」(『曾丹集』:この「祈(ね)ぎ」は四段活用。歌意は、「水出しせし(みだしせし)」に「乱(みだ)しせし」がかかり、万776の「こと(事・言)出(で)しは誰(た)が言(こと)にあるか小山田(をやまだの)の苗代水(なはしろみづ)の中淀(なかよど)にして」が意識されているということか。つまり、言いだして以来、神に祈っている、ということ)。