N音の客観的認了とA音の全的完成により全的完成感のある認了(環境との均質)が生じる(表現される):その2
・虚無・喪失感(否定・禁止)。
「な」の全的認了は、その母音A音の効果によって客観的世界において、相対的な喪失感を生じさせ虚無・空虚となる(→「あり(有り・在り)」の項と「あえ (落え・熟え)」の項)。相対的な喪失感とは、何かが存在したり作用したりするとは他との関係の表現、他からの表現や他への表現、であり、他との均質感はその存在感や作用感を喪失させるということです。存在や動態への喪失感の表明は受容の拒否や禁止にもなる。ただしこれはあくまでも客観的に生じている喪失感を表現するものです。即自動的(即、自動的、ではなく、即自的動的)拒否感の表明はN音ではなく、動態に勢いをつけすべてを投げ棄(う)つような原始的発声たるY音「や」です→「いや(嫌)」。この「な」の喪失感は形容詞「なし(無し)」(形ク)の語幹「な」にもなっている。これは文法的には、助詞ではなく、「副詞」と言われる「な」なのですが、「な言ひそ」というような表現がある。この「な」は「ぬは(「ぬ」は)」。「ぬ」は、「行かぬ(行かない)」「枯れぬ(枯れない)」にあるような、否定を表現する「ぬ」。「は」は助詞であり、何かを提示する。「「ぬ」は」とは、否定は、そうしないのは、の意。「ないひそ(な言ひそ)」は「「ぬ」は言ひ、そ」。「ぬ」は、否定されるのは、言ひ(言ふこと)そ、という表現。これは「無しよ、言ふのは」のような表現であり、非常に、女性的というか、柔らかな禁止表現になる。「月な見給ひそ」(『竹取物語』:月をご覧になることは無しですよ。月は見てはいけませんよ)。「雲なたなびき」(万2669:雲よ、たなびくことは無しですよ、のような表現。これは「そ」は言われていない)。後(のち:平安時代後半以降)には「な」を言わず「そ」だけで禁止を表現することも現れる→「牛の子にふまるな庭のかたつふり角のあれはとて身(み)をはたのみそ」(『夫木(フボク)和歌抄』)。
先述のように、この「な」は文法的に「副詞」と言われる。
「言ふな」というような禁止もある。この「な」は「~にいな(~に否)」。「言ふな」は「言ふにいな(言ふに否)」。言うことに対し強い拒否を宣言している(「いな(否)」は拒否です)。これが禁止表現になる。非常に強い直接的禁止である。「玉取り得ずば帰り来(く)な」(『竹取物語』:玉が取れないなら帰って来るな)。「…鹿(しし)じもの 水浸(みづ)く辺隠(へごも)り みなそそく 鮪(しび)の若子(わくご)を 漁(あさ)り出(づ)な 猪(ゐ)の子(こ)」(『日本書紀』歌謡95:「みなそそく」は、誰もが誰もが高揚しこころひかれる、のような意)。
この「な」は文法的に「終助詞」と言われる。
「汝(なむぢ)ら疑ふことな(汝等勿疑)」(『金光明最勝王経』平安初期点)といった表現もありますが、この「な」は「なし(無し)」の語幹だけが言われる事象否定による間接的禁止(疑うことはない→疑うな)。
この「な」も文法的に「終助詞」と言われる。