N音の客観的認了とA音の全的完成により全的完成感のある認了(環境との均質)が生じる(表現される):その1。
・全的認了による呼びかけ。
客観的な全的認了(環境との均質)が相手への呼びかけ・意思的働きかけとして作用する。これは相手に均質感を働きかけそれを作動させようとする。相手に何かを勧めたり促したりする。
「家聞かな」(万1)、「妹(いも)がり(妹のもとへ)行かな)」(万2257)といった表現がある。この「な」は「~むな」。「む」は意思・推量の助動詞たるそれであり、消音化している。つまり、動詞に意思・推量の助動詞「む」がつきそれに助詞の「な」がついている。「~むな」は、意思・推量された動態を「な」により客観世界へ(相手へ)働きかけることが勧誘・勧め・促しや自分の意思の表明になる。「家聞かな」は「む」が推量なら「お前は聞くだろうな(私は言おう)」であり、意思なら「私は聞こうな(言いなさいな)」です(この『万葉集』冒頭の歌はそういう構成になっている)、「妹(いも)がり(妹のもとへ)行かな」は、推量であり「私は行くだろうな(行こう)」です。「今は漕ぎ出でな」(万8:漕ぎ出なさいな)、「恵み給はな」(万3930)、「(梅の花を)かざしにしてな」(万820:髪飾りにしなさいな)。たとえば「行かな」は、「行こうな」や「行こうね」のような表現です(「行こう」は「行かむ」の変化)。この「な」は助動詞「む」がつく場合と同じ変化が生じている動詞につく。つまり動詞の未然形につく(外観としてそうなる)。N音の認了感による呼びかけは「ね」でも起こる→「妹に逢ひて来(こ)ね」(万3687:妹に逢ってきなさいな(逢ってくればいいのに:空を飛ぶ雁に言っている)。「名告(の)らさね」(万1:名をお言いなさいな:告(の)り、の尊敬表現、告(の)らし、に、ね、がついている)。この「ね」も、「な」のように、「~むね」。
「な」「ね」以外に「に」でも同じことが起こるとも言われるます(→「なり(生業)をしまさに(斯麻佐尓)」(万801))、これは疑問です。この「に」は、動態を形容する助詞の「に」と同じであり、均質感を相手に働きかけそれを作動させようとする上記の「な」や「ね」とはN音の働きがことなっている。この「に」は、たとえば「そういうこともあるだろうに」などと言う場合の文末の「に」と同じであり、それによって形容される、たとえば「~世の中はある」といった、それにつづく表現が省略されている。上記万801の歌は「実直に生業をなさるように(そうあることが人の道だ)」ということ。この「に」は、「そういうこともあるだろうにまぁ」の最後の「まぁ」のような、感嘆の「も」がついて「にも」にもなる。それらの例としては、「丹生(にふ)の山辺にい行き鳴(な)かにも(尓毛)」(万4187:丹生(にふ)の山辺に行って鳴けばいいのに)、「一云 妻賜(たま)はにも(尓毛) 妻といひながら」(万1679:妻を賜(たまは)るだろうに。(神社のあるところの名が)妻(つま)なのだから)。
この「な」「ね」「に」は文法的に「終助詞」と言われる。