◎「な(二人称)」
二人称を表現する「な」がある。N音の認了性と、A音の全的完成感・情況感、それゆえの情況との均質感が情況完了とでもいうような効果となり、これが漠然と現情況、情況となっている相手を現し、指し示す効果を生じる。一人称の「な」も言われますが(→「常世辺(とこよべ)に住むべきものを剣大刀(つるぎたち)な(己)が心からおそやこの君」(万1741:「おそ(遅・鈍)」は頭の働きが不活性で愚かということ))、これは「あな(己)」(その項)の「あ」の無音化でしょう。
「な(那)こそは 男(を)にいませば………吾(あ)はもよ 女(め)にしあれば…」(『古事記』歌謡6)。
「小山田(をやまだ)の池の堤(つつみ)にさす楊(やなぎ)成りも成らずもな(奈)と二人はも」(万3492::この「さす(左須)」は、挿し木として地に挿(さ)すわけではなく、現れ・発生を表現する「さす(左須)」であり(「若葉さす野辺の小松を…」(『源氏物語』))、淡く、青やかな芽が現れ始めた柳、ということでしょう。一般には挿し木と解釈されている。最後の句は、なろうとなるまいと、どのような結果になろうと、あなたとふたり、ということ)。
「淡海(あふみ)の海(み)夕波(ゆふなみ)千鳥(ちどり)な(汝)が鳴けば心もしのにいにしへ思(おも)ほゆ」(万266:この「な」は擬人化され鳥。「淡海乃海(あふみのみ)→近江(あふみ)の海」は琵琶湖)。

◎ N音の語音性
N音の語音性、その効果性の基本は客観性と均質性です。均質性は認了(そうとみとめる)となり、その効果により、たとえば「ぬ」が、完了の助動詞、と言われたりもする。その場合、たとえば「なり(成り)」の「な」は全的認了を表現し、「なし(無し)」の「な」は空虚を表現するということが起こりますが、その違いは、子音たるN音による効果ではなく、母音たるA音の効果です→「あり(有り・在り)」の項(2019年9月12日)と「あえ (落え・熟え)」の項(下記再記)。U音でも、「ぬ」は、「行きぬ」の「ぬ」は完了の助動詞であり、「行かぬ」の「ぬ」は否定や打消しの助動詞(「ず」の連体形(終止形に入れる人もいる))と言われますが、それも母音の効果です。N音の効果ではない。
・「あえ(落え・熟え)」(動詞)再記
空虚感を表現する「あ」。空虚感、自我構成力の喪失感(構成力の空虚化)、活性力の衰化、自我の不活性化(活性の空虚化)を表現する「あ」がある。
(「あ」による)動態の全的完成―それが飽和し完成すること―はその相対性はなくなりそれは無意味化し虚無化し空虚となることを意味する。動態が完成し飽和したとき完成させ飽和させた動態はもはや動態として意味を喪失する。こうした空虚感を表現する「あ」による動詞としては他に「あせ(褪せ)」や「あき(飽き)」、形容詞では「あし(悪し)」がある。「あえ(落え)」はそうした飽和的な空虚を表現し、熟しきった果実が自然に枝から離れたり(つまり落ちたり)、汗や血や膿が、余ったように、溢れるように滴り流れ落ちる状態を表現したりする。
「かぐはしみ……あゆる実は、玉に貫(ぬ)きつつ手に巻きて……」(万4111)。