◎「とんど」
これは小正月(一月十四日か十五日)に門松、しめ縄(加えて書き初めなど)を焚き上げる民間風習を言う。「トウオンタフ(燈恩塔)」。火(ひ)、炎(ほのほ)、灯(ともしび)たる恩(オン)の塔(タフ)、の意。そういう塔(タフ)を現実として現すこと、ということです。この行事は「とんど焼(や)き」や「どんど焼(や)き」とも言いますが、炎(ほのほ)となった恩(オン)の塔(タフ)を見る風習・行事、ということ。「恩(オン))」は『説文』に「惠也」と書かれ、『廣韻』には「愛也」とも書かれ、日本の辞書でも、その意味は「恵(めぐ)み」「情(なさ)け」「慈(いつく)しみ」と書かれるような語。ではなぜ、しめ縄などを焚き上げるその炎が恵(めぐ)みや慈(いつく)しみの炎(ほのほ)になるのか。しめ縄などは、そのときが特別な時(とき)、自分がいま居るその時空域が特別な時空域であることを表現するものですが(しめ縄(注連縄)は天の岩屋戸に張られた縄の印象も影響しているのでしょう。この縄で永遠に闇が閉ざされた)、その「自分がいま居るその時」は、明治5(1872)年以前の暦(いわゆる旧暦)で言えば正月、それ以後の暦(いわゆる新暦)で言えば2月上旬の、「初春(はつはる)」と言われるころであり、自分がいま居るその時空域が特別な時空域であることを表現することは時(とき)の流れへの敬(うやま)いであり、それは季節のめぐりへの敬(うやま)いであり、その季節のめぐりは豊かに生命をはぐくみ、人に恵(めぐみ)をもたらす。あらたな時(とき)のめぐりの、季節のめぐりの、はじまりという特別な時空域が過ぎ、自分が特別な時空域にあることを表現したそれが燃える炎(ほのほ)はその恵(めぐみ)を思いそれをもたらす力(ちから)への敬いとして世に現れる。「トウオン(燈恩)」、炎(ほのほ)たる恩(オン)、恵(めぐ)み、そしてそれへの敬(うやま)いの燃え盛りとして世に現れる。「塔(タフ):サンスクリット語の漢字表現による語」にかんして言えば、各地のさまざまな神社で古いしめ縄やお札などを焚き上げるということが行われた場合、それは通常の焚火でしょうけれど、「とんど」はしめ縄その他が、細いと言っていい錐状に積まれ・組まれ、「塔(タフ)」の状態になり、これが炎(ほのほ)となって天へ昇る。
この風習は「さぎちょう(左義長)」とも言う。これは「サンぎチャウ(三木頂)」。三本の木を鋭角の三角錐状に立て、飾りも施し、そこでしめ縄その他を焚きあげる。「左義長」という表記は当て字ですが、仏教的な故事もある(いわゆる故事付け)。
「夕暮にひとり焚く火もとんどなり」 (「俳句」八染藍子)。
◎「とんと」
「ほとんど(殆ど)」に「ほ」「ど」なく(「ほど(程):程度」なく)。「ほとんど」から「ほ」と「ど」がなくなった場合、「とん」になる。つまり、「とんと」は、「ほとんど(殆ど)」に「ほど(程)」がない状態で、たとえば、百グラムほど、などというあいまいさ、おおよそさなどない状態で→完全に、すっかり、まったく、という意味になる。
「此ノ山ノ上カラカウ見渡セバ。柳ノ青イ色ト。桜ノ花ノ白イ色トヲコキマゼテ。トント錦ト見エル」(『古今集遠鏡』)。
「とんと惚れた」。「とんと存ぜず」。「とんとわからぬ」。