「でヱす(で会す)」。「で」は助詞。「ヱ」は「会」の音(オン)。この語は「(とくに、多くの人が)あふ(会ふ)」という意味ですが(→「ホフヱ(法会)」)、「ヱシャク(会釈)」((仏教用語で)相異ない共通理解を得る→人との関係においてそうした態度・対応を示す→礼儀にかなった応対をする→好意を示す応対をする→出会いで挨拶態度を示す)、といったもちい方がなされ、人と、全的に和した、融和的な一体的状態になる、という意味でもちいられ(※)、理性的に、礼儀にかなってそれがなされる印象の語になっている。最後の「す(為)」は動詞。「~でヱす(で会す)→~です」は、その発生原意で表現すれば、~にとへヱす(~にと経会為)、ということであり、「私はAです」 は 「私はAにと経(へ)、会(ヱ)す:私は「Aに(あり)」と経過し、(あなたと) 一体的状態になる」 という意味になり、これが 「私はA」 の、相手を尊重し礼儀にかない相手に好意をいだいていることも表現する表現となる。つまり、「私はAです」は、「私はA」や「私はAだ」よりも相手への尊重感のある丁寧な言い方ということになる。「~でげす」という言い方もありますが、これは「~でゲヱす(~で下会す)」。下の立場で会(ヱ)す、ということであり、「~です」よりもへりくだっている。ただし、それは「~です」の、俗語的に現れる「~でんす」などとも相互的に影響し合った歴史的発展としての意味発展、ということであり、原語とでも言うような、狂言に現れる「~です」は、「ゑ(会)」の仏教用語的な意味合いをそのまま含む、格式のある語となっている。原形通りの「~でゑす」という言い方もあり、これも俗用として広がるが、権威的というか、尊大な印象をともなう (後世においては、「~です」は、単なる断定よりも、礼儀正しい、心のこもった丁寧な表現、という印象になり(表現の格式性がそうさせ)、この。「~です」と「~ます」が文末につく「丁寧な表現」の代表になる。それは、尊敬表現、でもなく、謙譲表現、でもなく、礼儀が尊重された「丁寧な表現」)。

これによる「~ですから」「~ですが」「~ですので」といった表現もある。

一般に、この「~です」の語源は「でさうらふ(で候)」や「であります」の略形と言われることがほとんどです(他の説も多少ある)。

※ 「会(會):呉音ヱ、漢音クヮイ、中華人民共和国音、フェイのような音」は『説文』に「合也」とされる字であり、「会意」という語などは、ある意があい一体化する意味がありますが、上記のような、全的に和した、融和的な一体界を一般的に意味するような意味は中国語にはないと思われます。つまり、上記の「ゑ(会)」は中国語「ヱ(会)」による日本での意味。

「『東国に隠れもない、大名です』」(「狂言」『入間川』:これは大名が自分を紹介している(正確に言えば、狂言作者が大名の自己紹介としてそう言っている))。

「『今日の奏者です』」(「狂言」『もちさけ』:これは「奏者」の自己紹介であり、「奏者」は、たとえば人々の大名への正月の挨拶などを、とりしきる偉い人。この狂言の冒頭には「『罷出たる者は、加賀の国の御百姓で御ざる』とあり、百姓の自己紹介は「~でござる」と言う)。

「『是は地ごくのあるじゑんま大王です』」(「狂言」『朝比奈』:これは閻魔大王の自己紹介)。

・「でんす」

「でヱンす(で円為)」。「でヱす(で会為)」の「会(ヱ)」の、和した融和的状態を客観的に、形状的に「ヱン(円)」(真円であること)と表現したものであり、原形のままの「~でゑんす」という表現もあり、これはやや権威的な、尊大な印象も残りますが、略され俗用される「~でんす」は、丁寧な言い方と言った程度の権威性になっていく。

「物いひやかましくして、でんす、あんすとはねちらし」(「浮世草子」『好色訓蒙図彙』:「あんす」はその項)。