「たみうけ(発生み受け)」。「たみ(発生み)」にかんしてはその項(1月17日)。「た」には発生の語感(語音の生態と言ってもいい)があり、「煙が立ち」「人が立ち」などの「たち(立ち)」は活用語尾が思念的に確認するT音による発生の完了を表現しますが、「たみ(発生み)」は活用語尾が意思動態的M音により、発生が意思動態的に表現される。また、「た」による発生は経験経過の発生も表現し、「たち(立ち)」は「(時が)経(た)ち」「(月日が)経(た)ち」のような、「経(た)ち」も表現する。「たむけ」によける「たみ」の「た」はそれであり、漢字表記で「経(た)み」と書いてもいい。「たみうけ(発生み受け)」の「うけ(受け)」は受容であり、「請(う)け負(お)ふ」「下請け」などにあるような、ものごとの受容を表現する。すなわち、「たみうけ(発生み受け)→たむけ」は、経験経過を受けること、それを請け負うこと、なのですが、どういうことかというと、ここでいう経験経過とは、日常生活にない、未知の地へいく、とりわけ、遠方へ行くことであり、「うけ(受け)」は、そこを行く経過を受ける、そこで起こることを引き受ける。受けるのは神であり、神がそれを受けてくれるとは、その日常生活にない未知の地への進行が神に守られ無事に、平穏に進む、ということなのです。それが「(神による)たみうけ(発生み受け)→たむけ」。その「たむけ」のために人は神の関心をこちらへ向かせるために幣(ぬさ)を祀り、さらに、様々な、神への供物(この供え物も「たむけ」と呼ばれる)を供えなどし、祈りもする。それがどこで行(おこな)われるかといえば、遠方へ行く場合、日常的な世界から他の世界へと行く印象になるところ、たとえば峠の頂(その場所・地域部分や「たむけ」を祀ったその地点も「たむけ(手向)」と呼ばれる)、あるいは路(みち)や川が曲がるその角(かど)部分など。ここで幣(ぬさ)をまつり供物を供えなどし旅の平穏無事を願う。すなわち、「たむけ(手向)」は「たびうけ(旅受け)→たぶけ」と言ってもいいような語。この「たむけ(手向)」は動詞化もし、それは「たむけ(手向)」をおこなうことを意味する(「たみ(発生み)」を受けることを意味するわけではない)。そして、さらには、別れ旅立つ人への贈り物も「たむけ」と呼ばれ、神に供え物を供えたりする「たむけ」と同じような行為も「たむけ」と言われるようになり、墓参で花を供えることを「花をたむけ」と言ったりもし、そこに供える水を「たむけの水」と言ったりもする(単なる行為の類似というだけではなく、死別が旅立ったような印象があるということかもしれないが)。漢字表記の「手向」は手を向けて供え物を供える印象からの当て字でしょう。
「…近江道(あふみぢ)の 逢坂山(あふさかやま)に 手向けして 我が越え行けば…」(万3240)。
「砺波山(となみやま:現・富山県小矢部市) 手向けの神に(多牟氣能可味尓) 幣(ぬさ)奉(まつ)り 我が祈(こ)ひ祈(の)まく はしけやし 君がただかを …………相見しめとぞ」(万4008)。
「かしこみと告(の)らずありしをみ越道(こしぢ)の手向け(多武氣)に立ちて妹が名告りつ」(万3730:「たむけ」をおこなったそこに立ち)。
「指進乃 粟栖(くるす)の小野の萩の花散らむ時にし行きて手向けむ」(万970:「粟栖(くるす)の小野」は栗の木が生えている野ですが、一句の「指進乃」は、諸説ありますが、読みも意味も未詳とされる。これは「ひたみちの(直路の)」でしょう。迷いや脇へそれたりすることなく進む路、ということですが、表記は、それが何かをめざして進んでいることを表している。直路(ひたみち)の→来(く)る・来栖(くるす)、というかかり方。迷うことなくただまっすぐにそこへ向かって進み来る。そこは来栖の野であり、栗の毬(いが)があり危険(恐ろしい)。そしてその野に燃えるように赤い萩が咲いている。それが散るときが旅立ちであり、手向けし神に祈る…。死を予感させるような歌です)。
「伊予の介(すけ)、神無月の朔日(ついたち)ころに(伊予へ)下る。女房の下らむに、とて、たむけ心ことにせさせたまふ」(『源氏物語』:この「たむけ」は伊予へ下る人への贈り物の状態になっている)。