◎「だてら」

「だてるは(伊達るは)」。「だてる(伊達る)」は「だて(伊達)」(11月21日)を動詞化したその連体形。動詞「だてる(伊達る)」は、「だて(伊達)」をしていること、そうした印象を生じさせていること。「は」は助詞であり、何かを提示し、以下がその提示された叙述の条件下にあることを表現する。「法師だてるは→法師だてら」は、法師の印象を生じさせながら、の意。これは逆説が表現され、その後、法師らしくないことが言われる。「法師だてらかくあながちなるわざをし給へば、仏の悪(にく)み給て…」(『狭衣古今著聞集』)。「女だてらに…」も、その後その者が女らしくないと思っていることが言われる。

 

◎「たどき」

→「たづき」の項(11月16日)。「ど」が甲類表記(万904)になるか乙類表記(万3329)になるかは「たづき」にある「行き」が「いき」になるか「ゆき」になるかにより微妙です。「せむすべのたどき(田度伎)を知らず」(万3329:これは挽歌にあるものであり、ある人が死に呆然としている。確かな理性がない)。「せむすべのたどき(多杼伎)を知らに」(万904:これは日々病が重くなっていく我が子を前に、どうしたらよいのかわからない、なすすべがない、という思いが歌われている)。

ちなみに、この「たどき」という言葉が用いられている「万3898」の四句「歌乞和我世」の訓みは、和を乞うのは「てき(敵)」ということで、「うたてきわがよ(うたてき我が世):鬱々としたやりきれない我が世、のような意」。この部分、一般に、「歌ひこそ我が背」(歌わずにはいられない、や、歌でも歌ってくれないか、のような意だという)と読まれている。「羇旅(旅にあること)を悲しみ傷(いた)みて」作れる歌、という前書きのあるそれをその読みで全文を記せば。「大船の上にし居れば天雲(あまぐも)のたどきも知らず歌ひこそ我が背」(万3898)。