◎「ただち(直ち)」
「ただち(直路)」。「ただ(直・唯・只)」はその項(10月25日)。「ち(路)」は目標感のある進行、その現実たる空間関係、を表現する(その項)。「ただち(直路)」は、他の路(ち)への期待が徒(あだ)になる路(ち)、のような意味になるわけですが、目標への進行に最も期待を充足する路(ち)です。他の目標への進行による障碍はないその目標への進行であり、進行路。それが「ただち(直路)」。「ただぢ」と濁音化もする。この語は、空間的な進行経路はもちろん意味しますが、ものごとや理由の進行経路、ことのなり行きや、なにごとかがあるその理由(つまり、なにごとかがある場合、そのなにごとかがたどって来た路(ち))、なども意味する(この意味では「ただちは知らず」(理由はわからないが、ことのいきさつも知らず)という言い方がなされることが多い)。
「月夜(つくよ)よみ妹(いも)にあはむと直道(ただち)から吾(われ)は来つれど夜ぞふけにける」(万2618)。
「しかとたゞち(直路)はしらね共(ども)、諸宗口をそろへてそせう(訴訟)するゆへ、先(まづ)ろうしや(牢舎)させ置候よ」(「浄瑠璃」『花洛受法記』:ことのなり行き、経緯(いきさつ)。「ろうしや(牢舎)させ」は人を牢屋に入れること)。
◎「ただちに(直ちに)」
「ただあちに(直彼方に)」。「ただ(直・唯・只)」はその項(10月25日)。「あち(彼方)」は、あち(彼方)こち(此方)、や、あちら(彼方)、などの、個別性・特定性のない方向、それによる、その方向のなにか、を表現するそれ。「に」は動態を形容するそれ。この場合の「ただ」(路(ち)が徒(あだ):→「ただ(直・唯・只)」の項)は、他の経路となる、質の異なる経路がない。そこでは、質のことなる経路たる、媒介となる、ものやことがない。ものたる媒介がなければ物的に直接に、であり、ことたる媒介がなければそのための時間経過がない。つまり、「ただあちに(直彼方に)→ただちに」は、「ただ、もののあちに」と「ただ、ことのあちに」ということ。「ことのあち」の場合は、時間的間隔なく、というだけではなく、認識や人格のあり方の「あち」に入ることもある。たとえば、ある説法を聞くとただちに悟りの界に入る。
「御前(ごぜん)の火爐(くわろ)に火をおく時は、火ばししてはさむことなし。かはらけ(素焼き土器)より直ちにうつすべし」(『徒然草』:「かはらけ」からただちに移す、ということは、水を注ぐように火(燃焼している炭)をおくということか)。
「此経を一偈(ゲ:仏教典中の詩句)一句にてもかきよみたてまつらむ人はたたちに尺迦牟尼仏のとかせたまふをきき」(『百座法談』:書き読むとそのまま、聞く、という環境に居る)。
「これ(中有:チウウ:死後、次の生まで)にやすらはで、直ちに浄土へ参り給ふべき様は、などいひ聞かせけり」(『十訓抄』)。
「なんぞ、(そのとき以外に永遠に時間などないことを知り)たゞ今の一念において、直(ただ)ちにすることの甚(はなは)だかたき」(『徒然草』)。
「昼食後ただちに集合」。