「タイドあひゆゆし(他意度間由由し)」。「ゆ」と「い」が交替している。「他意(タイ)」は、ほかの、異なった、思いや考え。「度(ド)」は、わたる(渡る)、こえる(超える)、の意であり、「度間(ドあひ)」は、その渡り超える、渡り超え安堵を得る、経過。「タイドあひゆゆし(他意度間由由し)→たいだいし」は、その他意(タイ)、ほかの思いや考えがそれを渡り超え、それを克服するまでの経過がゆゆしい。ほかの思いや考えを、それを渡り超え、それを克服する、とは、それを理解しその思いになることです。それがゆゆしく、通常の経験を動揺させることである(→「ゆゆし(由由し)」の項)とは、それを理解したりその思いになったりすることが非常に困難であることを意味する。すなわち、「たいだいし」は、理解しがたい、や、同じ思いになりがたい、のような意味になる。ちなみに、「他意」という漢語は万4128の右詞文に用いられている。「度」という漢語は仏教の関係で古くから用いられている。

この語の語源にかんしては、いろいろと言われますが、基本的には、よくわかっていない。もっともよく言われるのは、進行が難渋することを表現する「たぎたぎし」の音便とするもの。しかし、「たいだいし」の用いられ方は、進行が難渋していることを表現していると考えることに不自然さを生じる。

「『いにしへ(昔。若いころ)は、げに面(おも)馴(な)れて、あやしくたいだいしきまで馴れさぶらひ、心に隔つることなく御覧ぜられしを(心隔てなくしていただきましたが)…………』などかしこまり申したまふ」(『源氏物語』)。:今から思えば、そんなことはあるはずもないと思うほど顔見知りになって。この「たいだいし」も、進行が難渋するほど馴れ、は不自然でしょう)。

「『便(びん)なしと思ふべけれど、今一度、かの亡骸を見ざらむが、いといぶせかるべきを、馬にてものせむ』と(主人の源氏が)のたまふを、(従者の惟光は)いとたいだいしきこととは思へど………」(『源氏物語』:「便(ビン)」は中国の古い書に「安也」や「利也」と書かれる字。「いぶせかるべきを」は、言いにくいが…、のような表現→「いぶせし(鬱悒し)」の項。「馬にてものせむ」は、自分が馬の乗ることを、従者が乗せ、連れて行くような表現をしたということか。従者・惟光は納得いかない思いはしたが、ということ)。

「御門(みかど)聞食(きこしめし)て。……………とおもほして仰(おほせ)給ふ。『なんぢがもちてはんべるかぐや姬奉れ。かほかたちよしと聞食(きこしめし)て御使をたび(たまひ)しかど。かひなく見えず成にけり。かくたいだいしくやはならはすべき』と仰らる」(『竹取物語』)。

「『斯(か)う斯(か)うの事、ありとは知ろしめしたるや。愛子(あいし)の御上(あなたの息子さんのこと)を、かくとり申すは(あれこれと言うのは)たいだいしけれど、承(うけたまは)るに、傍(かたはら)なる物かけ落つる心地すれば、斯くとり申すなり』」(『宇津保物語』)。

「『しかじかの事にて修法始めむとつかうまつれば、阿闍梨にまうでくる人も候はぬを、給はらむ』と申し給へば、『いと不便なる御事かな。えこそ承(うけたまは)らざりけれ。いかやうなる御心ちにぞ。いとたいだいしき御事にもあるかな』といみじう驚かせ給ひて」(『大鏡』:「えこそ承らざりけれ」は、「え」は驚きを表現し、驚愕すべき事態であれば承らないが→承ることが自然のなり行きだ→承らないなどということはありえないことだ)。