◎「た(田)
「たねのには(種の庭)」→「たねんな」→「たな」(「た」にアクセントがある)が「たん」のような音(オン)をへつつ「た」になった。種(たね)の特別域、の意(「には(庭)」はその項)。「たな」にかんしては「たなつもの・はたけつもの(田つもの・畑つもの):「つ」は助詞」という表現が『日本書紀』にある。21世紀で言えば、田(た)の産物を「たもの(田物)」、畑(はたけ)の産物を「はたけもの(畑物)」と言うようなもの。
「た(田)」が「たねのには(種の庭)」だとすると、「はたけ(畑)」も種の庭ではないのか、という疑問もありそうですが、「はたけ(畑)」(→「はた(畑)」の項)の起源は、自然界にある種の植物が生え育ち、その植物をさらに増やしたいと思った場合、その域一帯をその植物の独占域にしそれを広げようとする努力なのではなかろうか。すなわち、ある限定域の植物をすべて除き、その地を耕し、そこにある種の植物の種をまくことで畑がはじまっているわけではない。さらに、「たねのには(種の庭)→た(田)」の場合、そこを水がたまる特別域にする必要があったという事情もあったでしょう。
「秋の田の穂の上(へ)に霧(き)らふ朝霞(あさがすみ)いつへ(何時邊)の方に我が恋やまむ」(万88)。
「田 ………和名太」(『和名類聚鈔』)。
「乃(すなは)ち粟(あは)稗(ひえ)麥(むぎ)豆(まめ)を以ては陸田種子(はたけつもの)とす。稻(いね)を以ては水田種子(たなつもの)とす」(『日本書紀』)。
『古事記』歌謡35に「なづきのた(那豆岐能多)」という表現があり、これは「田(た)」と解されていますが、これにかんしては「いながら(稲幹)」の項(下記再記)。
◎「た(手)」
「て(手)」のA音化による情況化。手(て)の情況にある何かであることが表現される。「たぢから(手力)」。「たばさみ(手挟み)」。
・「いながら(稲幹)」再記
稲(いね)の(とりわけ、枯れた)幹(みき)を「いながら(稲幹)」と表現することは一般的にいつでもあり得ることなのですが、問題は『古事記』歌謡35第二句にある「伊那賀良(いながら)」です。これが一般に「稲幹(いながら)」と読まれているわけですが、歌の原文は「那豆岐能多能伊那賀良邇伊那賀良爾波比母登富呂布登許呂豆良(なづきのたの いながらに いながらに はひもとほろふ ところづら)」というもの。これは、伝承の間に音は変化しているでしょうけれど、「なでいきのつらの いなきあらはに いなきあらはに はひもとほろふ ところづら(撫で行きの面の い泣き『顕に…』 い泣き『顕に…』 這ひ廻ろふ 墓処面)」でしょう。一句は「でい」が「づ」になっている。二句は「きあ」が連濁し「が」になり「は」は退化している。「いなきあらはに(い泣き『顕に…』)」は、泣き続けつつ『あらはに…(顕に…)』と言っている。これは、土を取り除いて出してやってくれ、と言っているようにも聞こえる、(もう一度)現実のものとして現れてくれ、と(死者に)言っているようにも聞こえる。「はひもとほろふ(這ひ廻ろふ)」は同じところを這ひめぐるような状態になること。「い泣き『顕に…』 這ひ廻ろふ」は、泣きながら『顕に…』と嘆きつつ這ひ廻ろふ、ということ。五句の「ところづら(墓処面)」は人を埋葬したその地の表面。「ところ(所・処)」という言葉は原意的には墓処、正確に言えば霊の独占域のような地点域、を表現する。この歌は倭建命(やまとたけるのみこと)が遠征中に死去した際、后やその御子などがその地へ行き歌ったとされるものですが、歌全体の構成は「なづきのたの→ところづら」ということであり、その間に「いながらに いながらに はひもとほろふ」が入っている。歌意は、遺された者が泣きながら埋葬された大地を繰り返し撫で『あらはに…(顕に…)』と言っているものです。こうした場面が古代では現実にあったのでしょう。
この歌に関しては、『古事記』自体に、この歌は、后や御子たちが「なづき田(だ)」に匍(は)ひ廻(もとほり)て歌った歌、と、歌の背景説明めいたことが書かれているわけですが、これは、歌意がわからなくなった時代に、歌にある「なづきのたの」という表現に影響されたものでしょう。
また、この歌は一般に、泥田の稲幹(いながら)に這い絡んでいる「ところづら」という蔓(つる)性の植物、という解釈がなされていますが、これは問題外でしょう。