◎「そわへかも」
「そははえかも(そは映えかも)」。「そ」は指示。「も」は詠嘆。それは栄(は)え(名誉)か、の意。『万葉集』の歌にある表現。一般性はない。『万葉集』において「そわへ」が、語義未詳、とされる語。
「吾妹子(わぎもこ)に吾(あ)が恋ひ死なばそわへかも(曽和敝可毛)神におほせむ心知らずて」(万3566:「おほせ」は権威ある人が言っている「言(い)ふ」のような意であるが、「神におほせ」は神に対し言っているわけではなく、神において言う。主体が神なので特殊な表現になっている)。
◎「ぞんざい」
「ゾンじハイ(存じ廃)」。「ゾンじ(存じ)」は漢語の「存(ゾン)」と動詞の「し(為)」(「存知」は当て字)。「存(ゾン)」は「ある(在る)」という意味であり、「ゾンじ(存じ)」は在(あ)ることを意味する(→「『たとひ重盛命は亡ずといふとも、いかでか国の恥を思ふ心を存ぜざらん』」(『平家物語』))が、それは抽象的なことにかんして言われ、意味発展的に、それは、「心に忠を存じ」(忠を在り、忠を持ち、忠を維持し)といった表現を経、思う、考える、知る、といった意味になる(→「申さばやと存ずる」(申さなければと思う)、「御産なりぬと存じ」(お産がなったと知り)、「存知あげております」(知っています))。「ゾンじハイ(存じ廃)→ぞんざい」は、知っていながら、存じ上げていながら、廃され、廃棄され、棄てられている対応や処遇をすること。
「己(おの)れ兄に向て粗略(ぞんざい)千萬」(「浄瑠璃」『世継曽我』)。
◎「ぞんき」
「ゾンきり(存きり)」。「り」のR音退化による脱落。「存(ゾン)」は「ある(在る)」という意味ですが、「~きり」は、原意は動詞の「きり(切り)」ですが、「それきり音沙汰がない」、「『算盤(そろばん)は二之段ぎりだ』『べらぼうめ、それは始りだァ、夫(それ)っきりか』」(「滑稽本」『浮世床』)のような、切断する→限界が決まる→~だけ、~かぎり、という意味のそれ。つまり、「ゾンきり(存きり)→ぞんき」は、あるだけ、ということ。人に対し、人がそこにただあるだけ、という対応になり、通常の人と人との関係らしい対応がない。
「『何が気にいらねへでそんなにぞんきにあしくするのだ』」(「洒落本」『船頭深話』)。
ここで子音S音は終わります。母音(ア行)、子音K音(カ行)、子音S音(サ行)、日本語の辞書はだいたいこれで半分です。
ある程度お読みになった方なら、言っていることの基本は分かると思うのですが、母音とそれぞれの子音に語音としての生態があり、その全体を知ることにより日本語の生態が知られるということです。なぜそれを知ることが必要なのかというと(つまり、なぜこのサイトが書かれているのかというと)、通常、言語は左脳が脳ニューロンの反応中枢となり、左脳が言語脳と言われるのですが、世界の言語の中で、事実上、日本語だけが右脳も中枢となる全脳型の言語だからです。これは、言語が、対象化する客観世界も対象化無効の世界も表現するということであり、いま、世界において、未来に希望を開き得る言語は日本語しかない。
読者を楽しませようとか、面白がらせようとか、そういうことは全く考えていませんが、気になる項目がございましたらお読みになってください。